金屋村(読み)かなやむら

日本歴史地名大系 「金屋村」の解説

金屋村
かなやむら

[現在地名]八日市市金屋一―三丁目・野々宮町ののみやちよう青葉町あおばちよう幸町さいわいちようひばり丘町ひばりおかちよう春日町かすがちよう東本町ひがしほんまち

神崎郡八日市村の南にこま井を隔ててあり、八日市庭の南半分を構成する。蒲生がもう郡に属する。村名は鋳物師が居住していたことにちなみ、天文二三年(一五五四)九月二七日の裏菊紋使用許可状(野々宮神社文書)は金屋村鋳物師中に宛てられている。ただし金屋郷もしくは金屋村と記す史料は少なく、八日市南また八日市庭南方などと称された(永和四年九月二四日「法阿弥畠地売券」野矢文書など)。永享一〇年(一四三八)一〇月三日の盛珍菜畠売券(今堀日吉神社文書)にみえる八日市南の公方カチヤ(鍛冶屋)名も金屋内にあったとみられ、天文五年長命ちようめい(現近江八幡市)本堂の鰐口を鋳造した「八日市鋳師」も金屋に居住する鋳物師であろう(「長命寺結解記」など)。また永正一五年(一五一八)一一月一日の山越年貢銭算用状(今堀日吉神社文書)で保内惣庄へ一一六文を納めている八日市も金屋をさし、当地の商人が保内商人の一角を構成していた。一方、弘治三年(一五五七)三月二二日の御服年貢注文案(同文書)では、野々宮郷の商人二名から御服年貢五〇文が納められたことがみえる。金屋には野々宮神社(十禅師社)があり、野々宮郷も同社を含む一帯をさすと思われるが未詳。

天正三年(一五七五)八月二〇日には、前年柴田勝家により実施された下四郷堂社領への年貢賦課が、村民の抵抗で撤回することが金屋村など下四郷のうち五ヵ村へ伝えられた(「加藤次郎左衛門沙汰状写」中野町共有文書)


金屋村
かなやむら

[現在地名]児玉町金屋

金谷とも記す。児玉村の西に位置し、北は八幡山はちまんやま町・保木野ほきの村・田端たばた村。村内南部を身馴みなれ川を遡行して秩父へ至る道が通る。長享二年(一四八八)六月吉日の年紀をもつ県立博物館所蔵の懸仏の銘文に、「武州児玉金屋中林家次」とある。また天文一二年(一五四三)六月吉日の年紀がある静岡県小山おやま町高村一男氏所蔵の懸仏裏面には「武州児玉金屋中林常貞」、同一四年八月吉日の年紀がある現大滝おおたき村三峰神社所蔵の懸仏裏面には「武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」とそれぞれ陰刻されており、中林氏は当村在住の鋳物師であった。なお、「風土記稿」多摩郡平尾ひらお(現東京都稲城市)の項によると、同村の杉山すぎやま社に「延徳二年壬午五月五日」の年紀をもつ懸仏があり、「武州児玉郡金屋住人中村五郎左衛門家吉」とみえるが、延徳二年(一四九〇)の干支は庚戌であることから、この延徳は私年号であったとみられる。また建武三年(一三三六)正月二日の足利尊氏下文写(「萩藩譜録」山口県文書館蔵)によると、「児玉郡池屋」などの地頭職が児玉成行に安堵されている。貞和七年(観応二年、一三五一)三月日の児玉家氏申状(児玉文書)では児玉郡池屋などの地頭職の安堵が申請されており、同月三日足利直冬がこれを認めているが、「風土記稿」の金屋村の小名に池ノ谷がみえることから、池屋は当地にあったと考えられる。

永禄一一年(一五六八)三月三日の北条氏邦印判状写(武州文書)によれば、当地のうち三貫文の地が手作場として糟尾伊予に宛行われている。


金屋村
かなやむら

[現在地名]宇佐市金屋

長洲村の南、駅館やつかん川の東岸、宇佐台地上にある。はま往還が通り、中須賀なかすか村とを結ぶ同往還の船渡場があった。南は高森たかもり村、東は西大堀にしおおほり村、駅館川を挟み西は江島えしま村・中須賀村。宇佐台地には弥生遺跡が集中し、かわうえにある弥生時代後期の廟森びようもり遺跡では、円形封土をもつ箱式石棺に広形銅鉾が副葬されていたという。かつて当地には鋳物師集団が住しており、地名もそのことに由来するという。西大堀字野森のもりにある製鉄遺跡では八世紀以降のものとされる鉱滓が発見され、当地の鋳物師との関連が指摘される。弘安二年(一二七九)八月五日の下宮神宝物并清祓料足送状(永弘文書)に「金屋の正完入道」とみえ、正完は盗品の鰐口や花立てなどを購入しているが、鋳物師であったか。


金屋村
かなやむら

[現在地名]荒川町金屋

荒川左岸の沖積地に位置し、北東は鳥屋とりや村、北西は海老江えびえ村、南は中倉なかくら村に接する。米沢街道と出羽街道を結ぶ脇道が通る。嘉元二年(一三〇四)七月一八日の左衛門尉宗経・同盛房連署請文写(山形大学所蔵中条家文書)荒河あらかわ保内新光寺しんこうじの東境としてみえる「馬場」は当村の字馬場ばんばに比定される。万治二年(一六五九)の検地帳の写(江端惣十郎氏蔵)には字名として松山まつやま松山田まつやまた助淵すけぶち外助淵そとすけふち北又きたまたなどが記されることから、前出請文写で河村秀久と同秀通が境相論をしている「渕」も当村内であろう。元亨三年(一三二三)八月七日秀久が荒河保内の知行分と惣領職を子に配分した際、「まつやまおもてのふん、ミなミまた・すけふち」を二分し、うち半分を嫡子政秀が選び取り、残りを次男ひてたうが知行することとされた。


金屋村
かなやむら

[現在地名]富山市金屋・西金屋にしかなやなど

呉羽山くれはやま丘陵の南東麓、井田いだ川の右岸にあたり、うしくび用水に沿って本村が位置し、呉羽山丘陵を挟んだ西側に枝村の金草かなくさがある。東は下野新しものしん村、南は安田やすだ(現婦中町)、西は古沢ふるさわ村。婦負郡に属する。神保長職の富山築城は天文一二年(一五四三)頃とみられるが、その富山城下について記したとみられる「富山之記」には、富山城下の東西の幅について「上者金屋渡、下者鼬河迄一里之間」とあり、金屋渡が城下西端となっていたようである。現在金屋の西側を流れる牛ヶ首用水は、神通川(古川)の跡を利用したものであり、金屋渡とは古神通川の渡しであったといえる。永禄三年(一五六〇)の越後長尾景虎(上杉謙信)の出陣により神保長職は富山城を追われ、呉羽山以西に移ったが、謙信の帰国とともに「呉増山」に城郭を構えて抵抗したため、永禄五年に謙信は再出馬し、周辺を焼払って巣城とした(一〇月二七日「上杉輝虎書状」乙川忠栄次所蔵文書)


金屋村
かなやむら

[現在地名]可児市今渡いまわたり

可茂かも盆地の中央部、西へ流れる木曾川南岸にあり、東西に中山道が通る。野市場のいちば村と合せて今渡と称した。享和二年(一八〇二)野市場村絵図(岐阜大学博物館蔵)によれば、中山道の両側の家並のうち、野市場村の家並に囲まれて中山道北側の浅間社を挟んだ両側とその南側の二ヵ所が金屋村屋敷とある。当村の耕地の大部分は野市場村の東に位置するが、家は野市場村と入交じっていた。今渡の町並は文禄四年(一五九五)金山かねやま(現可児郡兼山町)城主森氏支配のときに立てられたとされる(明暦三年「今渡町年貢断願書」恵土文書)元禄郷帳に金屋村とみえ、幕府領。


金屋村
かなやむら

[現在地名]用瀬町金屋

家奥いえおく村の東、千代川東岸に位置し、智頭ちず街道が通る。中世から鋳物師がおり、現船岡ふなおか殿の多宝とののたほう寺蔵の鐘銘に、康正三年(一四五七)一〇月一九日の年紀とともに「用瀬地下金屋 大工藤原重家」と刻まれている。建武五年(一三三八)四月一日の年紀をもつ「因幡国野坂郷松上大菩薩」の鐘銘(因幡民談記)にみえる「用瀬大工賀茂家守」も当地に居住していた可能性が高い。ただし入江家の伝えでは、天文二二年(一五五三)に河内国丹南たんなん新在家しんざいけ村の住人藤原久成が当地に移住して鋳物業を始めたという。江戸時代には鍋・釜類の生産地として知られ、文久三年(一八六三)当村の加賀田磯右衛門・同茂三郎・同伊兵衛・入江伊右衛門の四名は、京都真継家から灯籠を鋳造し禁裏へ献上するよう命じられている(在方諸事控)


金屋村
かなやむら

[現在地名]中山町田中たなか

内蔵うちのくら村の北東にあり、北は日本海に臨み、海岸線は絶壁をなす。伯耆街道が集落を東西に抜ける。内蔵村の枝郷で、享和三年(一八〇三)に地先新田として届出され、天保五年(一八三四)に分村した(藩史)天保郷帳に内蔵村新田と肩書して村名がみえ、高一四石余。本免四ツ一歩。幕末の六郡郷村生高竈付には金谷と記され、生高一六石余、竈数一三。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)によれば林六反余、家数一三・人数五二。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では総竈数一三、うち余業を営む戸数八で、内訳は木挽四、大工・鍛冶屋・蚊帳小売・小炭焼各一。


金屋村
かなやむら

[現在地名]養老町金屋

直江なおえ村の西、牧田まきだ川左岸に立地する。北西は橋爪はしづめ村。古くから鋳物師の多かった地で、地名もそれに由来する。谷汲山華厳けごん(現揖斐郡谷汲村)蔵の鰐口銘に「大工タキノ住 西金屋 平吉久」とあり、平吉久の名は明応三年(一四九四)銘のある現美濃市の大矢田おやだ神社の梵鐘にみえる。関ヶ原合戦のとき敗戦を知って伊勢方面へ撤兵しようとした石田三成方の軍勢を、東軍の徳永寿昌・市橋長勝らの軍勢が当地金屋川原で迎え撃ち、合戦が行われた(美濃雑事紀)


金屋村
かなやむら

[現在地名]温泉町金屋

井土いど村の北東にある。西を岸田きしだ川が流れ、北隣の今岡いまおか村との境を流れる支流熊谷くまだに川が合流する。古くは鋳物師が住し、地名もそのことに由来すると思われる。なお当地の鋳物師は因幡国から移り住んだとの伝承がある(「須賀神社由緒調査書」石谷家文書)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「かなや」とみえ、当地には大工殿(鋳物師大工職)が住していた。


金屋村
かなやむら

[現在地名]小浜市金屋

国分こくぶ村の南に位置し、西は遠敷おにゆう川。鎌倉初期に河内国狭山さやま(現大阪府南河内郡狭山町)より移住したと伝える鋳物師の居住地で、鎌倉時代は松永まつなが保に属した。

応永四年(一三九七)六月一一日の紀年銘をもつ小浜八幡神社旧蔵鐘銘に「大願主三河刺史 浄鎮 大工下金屋 来阿」とあり、若狭守護一色詮範の代官小笠原浄鎮の発願により金屋鋳物師が鋳造したことを示し、金屋の地名も室町初期には存在した。


金屋村
かなやむら

[現在地名]笹神村金屋

南のじんヶ峰の北麓に位置し、西は押切おしきり村、東は次郎丸じろうまる村と接する。天正二年(一五七四)九月吉日の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)に村名があり、貝津藤内左衛門尉に対する給分三貫六〇〇文分八五〇苅のうち、七〇〇文分の田地など軍役衆の給恩地があった。正保国絵図には高一五〇石余とあり、村上藩領。元禄郷帳では高一八一石余とあり、枝郷として金屋新村高一〇石二斗余とある。


金屋村
かなやむら

[現在地名]滑川市東金屋ひがしかなや

早月はやつき川が形成した隆起扇状地(室山野台地)の末端部に位置し、南西は改養寺かいようじ村、北東は道寺どうじ村。村名の由来は旧名の柴金屋しばかなや(金屋野とも称された)による。伝承によれば四〇〇年前に蓬沢よもぎざわ(現上市町)の七郎左衛門が当地に居住して開発を始め、のち改養寺村と道寺村を分村したと伝える(東加積村誌)。「越中志徴」の引く郷村名義抄は、往古鋳物師が存在したのが村名の由来としている。


金屋村
かなやむら

[現在地名]高岡市金屋

放生津ほうじようづ潟南西部に広がる田園地帯に位置し、小杉新こすぎしん(現小杉町)への道が南北に通じる。村の西部を西神楽にしかぐら川が南北に流れる。東は姫野ひめの村。地名の由来は、かつて鋳物師が居住していたことによるという(越中志徴)。飛騨国吉城よしき荒木あらき神社(現岐阜県国府町)の永禄五年(一五六二)七月二八日の梵鐘銘(飛州志)に「射水郡大袋庄内放生津上釜屋」とあり、釜屋は金屋と思われる。


金屋村
かなやむら

[現在地名]尾上町金屋

東は田畑から山へと続き、西は田中たなか村へ接し、田圃を隔てて南に新屋あらや(現平賀町)、北東に高賀野こうがの(現黒石市)がある。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「十津」とあるのが、金屋村の古称と思われる。村名は茶臼ちやうす(現弘前市乳井付近)の戦に関連してみられる。天正七年(一五七九)七月、大光寺だいこうじ(現平賀町)城主大光寺信愛の子、六郎と七郎を中心とする比内ひない(現秋田県北部)の南部勢が、大光寺城奪還を図って来攻。


金屋村
かなやむら

[現在地名]山南町金屋

東は岡本おかもと村に隣接し、南端を篠山川が西流する。南向きに開けた扇状台地上に集落と耕地が形成されている。金谷村とも記す(国立史料館本元禄郷帳など)。応安二年(一三六九)三月一八日の栗作郷竹林寺先達引檀那注文(熊野本宮大社文書)に紀州熊野の檀那として「金屋村下殿両人」とみえる。当村は久下氏の居館が所在したところなので、先達竹林寺が率いた「下殿」は久下氏であろう。応仁元年(一四六七)一一月九日の室町将軍家御教書案(久下信生家文書)によると、「栗作郷地頭職内田畠山林(并東カ)金屋村久下隼人佐重直跡」が久下三郎(政光か)に返付され、安堵されている。


金屋村
かなやむら

[現在地名]行橋市金屋・北泉きたいずみ一―二丁目・南大橋みなみおおはし一―二丁目

大橋村の南東、いま川と江尻えじり川に挟まれた低平地に立地し、江尻川右岸を中心に集落が形成されている。東は今井いまい村。中世は今井津を構成し、古くより都市的な場として機能していたとみられる。現在元永もとながにある須佐すさ神社(旧称今井祇園社)は初め金屋に勧請されたという説がある(「祇園三所天王勧請記」小山田文書/大分県史料七)。地名は鋳物師が集住したことに由来するとみられ、現津屋崎つやざき縫殿ぬいどの神社の梵鐘(県指定文化財)の陰刻銘には、永享一二年(一四四〇)三月七日に「今井庄東金屋大工藤原吉安」が鋳造したとある。


金屋村
かなやむら

[現在地名]郡山市田村町金屋たむらまちかなや

上行合かみゆきあい村の南、阿武隈川の東岸平地に立地。中世は田村庄に含まれ、永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「一町 四百文 かなや」とみえ、四〇〇文の年貢を納めている。「此以後者、ほつミ御取あるへし」との注記がある。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「一町 四百八十文 金屋」とある。


金屋村
かなやむら

[現在地名]洲本市金屋

大野おおの村の西、ほぼ北流する洲本川支流鮎屋あいや川東岸にある。南西は鮎屋村。三原みはら郡に属する。村名は金谷とも記される。現和歌山県金屋町の成道じようどう寺蔵の梵鐘の銘には正平二一年(一三六六)四月二四日、「淡路国広田庄金屋之如願禅門」から紀伊高野山西光院に寄進されたことが刻まれている(日本古鐘銘集成)。正保国絵図では金屋村とあり、高一七七石余。


金屋村
かなやむら

[現在地名]真玉町西真玉にしまたま 西金屋にしかなや金屋中かなやなか東金屋ひがしかなやなど

現町域の南西に位置し、南方を赤坂あかさこ川が流れる。江戸時代は周防灘に面する。年未詳の四月一六日の大友義統安堵状(田原卯七文書)に「真玉庄内、金屋田畠壱町三反分」とあり、田原親昌にその父和泉入道宗智の領掌していた同所を安堵している。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二七八石余で、家数四三のうち本百姓・小百姓一六、隠居・名子・庭屋・牛屋二七、人数男四四(うち名子四)・女三七、牛一三・馬三。正保郷帳では真玉庄に属し、田高六七石余・畑高一七七石余で、茅山有、柴山有、半分日損所、新田有と記す。


金屋村
かなやむら

[現在地名]桜井市大字金屋

三輪山西南麓、初瀬はせ谷の右岸渓口集落。古代の山辺やまのべの道が初瀬川の北岸沿いのかみ街道と合した位置にあり、古代の海柘榴市つばいちはこの地にあったという。三輪鍋座の本拠地。文安四年(一四四七)高野こうや山大湯屋の釜を鋳造した大工右衛門尉長継の脇大工が三輪衛門次郎であった(高野山文書)。「大乗院雑事記」に三輪鋳物師いもじの名が散見する。金屋は鋳物師の居住にちなむ職業地名。


金屋村
かなやむら

[現在地名]加悦町字金屋

与謝よざ村の北に位置し、村内を走る加悦街道沿いに集落が形成された。たき川・桜内さくらうち川を合した野田のだ川が北流する。

中世末の丹後国御檀家帳に

<資料は省略されています>

とみえる。「しやうたう寺」は小字正道寺しようどうじが残る。

慶長検地郷村帳に高一〇五五・四五石「金屋村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の検地の際に九八四・二石に減じた(天和元年宮津領村高帳)。減高になった珍しい例である。宮津藩領。享和三年(一八〇三)御領分縮緬屋御鑑札御改帳(「丹後加悦町誌」所引)によると、村には機数一八、ほかに紬一機、帯地二機があった。


金屋村
かなやむら

[現在地名]金屋町金屋

現金屋町の中央西端部に位置し、村の西と南を有田川が流れる。「続風土記」に「古鋳物師などありて村名となれるなるへし」とあるように、鋳物師がいたことにより発生した地名である。糸野いとの成道じようどう寺蔵の鐘の銘によれば、その鐘は正平二一年(一三六六)淡路国広田庄金屋に住む如願禅門が鋳造し、高野山の西光さいこう院に寄進したが、文明一八年(一四八六)に当村に運んで鋳替えている。


金屋村
かなやむら

[現在地名]上月町金屋

上月村・力万りきまん村の北、大日山おおびやま川支流幕山まくやま川下流域両岸平野部に立地する。上土居かみどい・中土居・下土居の三集落からなる。北の蔵垣内くらがいち村へ出て中世の美作道に、南の上月村へ出て近世の美作道に通じていた。慶長国絵図に金屋村とみえる。江戸時代の領主の変遷は上月村に同じ。正保郷帳では田方三二三石余・畠方一五七石余、旱損所の注記がある。延宝七年(一六七九)の検地帳(金屋村文書)では高四五六石余、反別田一八町七反余・畠二四町四反余、田畠名請人九四・屋敷名請人六五。


金屋村
かなやむら

[現在地名]熱塩加納村相田あいた

黒川くろかわ村の南東、野辺沢のべざわ川・押切おしきり川右岸の平野部に位置する。集落はかつて西方約一キロほど、現在の大字米岡よねおか地内の字二本木原にほんぎはら付近にあったが、いつの頃か現在地に移転したという。また古くは鍛冶・鋳物師の集住する村で、村名もこのことに由来するという。二本木原辺りでは多量の鉱滓が出土し、鍛冶屋敷かじやしきという地名も残る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に金屋とみえ、高一七六石余。享保一六年(一七三一)の五目組村々書上(福島県史)では高二二七石余、反別は田方一三町六反余・畑方一二町六反余、家数三二・人数一八一、馬一六を飼育し、漆木役二九四本七分・山役金一分・同銀一匁七分などが課せられていた。


金屋村
かなやむら

[現在地名]津山市金屋

南は押淵おしぶち村、北は小桁おげた村、東を吉井川が流れ、対岸は勝南しようなん瓜生原うりゆうばら村。伝承によれば、美作国での鋳物業は、河内国の渡来人百済氏の一族が観応二年(一三五一)当地へ移り住み、鋳物業を始めたのが最初という。慶長九年(一六〇四)津山城築城にあたり、石垣用の石を「久米南条郡大谷村、同郡金屋村」で採っている(森家先代実録)

元禄一一年(一六九八)以後村の北東部が津山藩領、南西部が幕府領に分轄される。南西部の元禄一四年からの領主の変遷はたね村に同じ。正保郷帳では田方一二石余・畑方四〇石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では六七石余、うち改出高一四石余・開高一石余。


金屋村
かなやむら

[現在地名]岩出町金屋

曾屋そうや村の南にあり、紀ノ川から取水するろつ用水の北岸にある。「続風土記」は「古へ根来寺全盛の時、此ノ村鋳冶を業とす、因て金屋の名あり、根来衰へて其ノ事止りしかとも尚旧の名を呼ひて村名とするなり」と記す。中世は山崎やまさき庄に含まれたと思われる。

慶長検地高目録は「金谷村」と記し、村高三〇五石余。曾屋の桃井家の先祖勤書によると、二代忠政が山崎組の大庄屋を勤めていた時「古紀ノ川床拝領仕新田開起仕候」と紀ノ川床を新田として開発したことがわかる。この時開発された田畑は当村域に属し、正徳元年(一七一一)の山崎組定免所指出帳(増田家蔵)に「一高三拾八石七升七合 新田畑 此町四町壱反三畝九歩」とある。


金屋村
かなやむら

[現在地名]東伯町金屋

中尾なかお村の南に位置する。拝領高は一五四石余、本免は五ツ四分。藪役銀一〇匁を課されており(藩史)、佐久間氏の給地であった(給人所付帳)。天保三年(一八三二)の山林は三町六反余(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一八〇石余、竈数二一。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数二二、うち余業二(木挽・綿打各一)。明和三年(一七六六)下伊勢しもいせ村が年々旱損のため新しく井手口をつくった代りとして当村分領鍛冶山かじやま下に堤がつくられている(在方諸事控)大田おおた金屋神社がある。かつては牛頭天王と称し、明治六年(一八七三)金屋神社と改称したのち、大正二年(一九一三)いったんは上伊勢の方見かたみ神社に合祀されたが、昭和二二年(一九四七)にもとの地に遷祀された。


金屋村
かなやむら

[現在地名]富山市南金屋みなみかなや

上石田かみいしだ村の南に位置し、北東は布市ぬのいち村。永和二年(一三七六)五月一四日の斯波義将書状案(東寺百合文書)によると、幕府は蔵人所灯炉供御人である「越中国野市金屋」の鋳物師に対して二宮入道が課した公事を停止するよう斯波義種に命じているが、野市は布市とみられ、二宮入道は当地の西方上熊野かみくまの城に拠った国侍と考えられる(越中志徴)。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一七七石、免三ツ九歩、小物成は野役九匁。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳によると、親村の布市村の南三町にある枝村新田で高二七九石。


金屋村
かなやむら

[現在地名]山崎町金谷かなや

揖保いぼ川の支流菅野すがの川の下流右岸に位置し、北はだん村・鶴木つるぎ村。慶長国絵図に金谷村とみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳に金屋村とみえ、田方四六〇石余・畠方一一三石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高七五五石余、田二〇町五反余・畑一七町余、小物成銀五三匁余(茶役二八匁余・永代請山畑九匁・楮役八匁余・「山畑役上リトモ」四匁余・栗役三匁余)・桑役(真綿)一三〇匁、家数六四・人数四二五、馬四・牛四〇。宝暦―明和(一七五一―七二)の郷中古事録(織金家文書)では田二二町四反余・畑一五町六反余、宝暦年間には家数四三・人数一七三。


金屋村
かなやむら

[現在地名]湯沢市金谷かなや

横手盆地南部、雄物川とその支流白子しろこ川に挟まれた氾濫原に発達する。北は金屋新田かなやしんでん村・八幡やわた村、東はもり村、南は柳田やなぎだ村、西は雄物川を隔てて貝沢かいざわ村(現雄勝おがち郡羽後町)に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には三二一石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では、高は本田三八九石三合、新田二四九石八斗九升三合、計六三八石八斗九升六合(当高六七〇石八斗四升一合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では当高は変わらず、家数五七軒。


金屋村
かなやむら

[現在地名]武生市金屋町

味真野あじまの扇状地の扇端付近に位置する。村名は鋳物師集落に由来すると思われる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南東いまなんとう郡中に村名と高一六六・八七五石が記され、正保郷帳によると総高一六六・八七五石は全部田方。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時期土岐頼殷領となったが、享保六年(一七二一)以降鯖江藩領。

越前国名蹟考」に「以前より高坂忠兵衛と云百姓一家一村の由、享保の比、小山村と争論有之、出訴之処、山高等減少せる由、本帳高の分は今に一人の支配にて、外雑家も無之一村の由なり」とあるように、高坂家は必ず他村で分家させるという家憲で、現在まで高坂家一軒一在所という珍しい村。


金屋村
かなやむら

[現在地名]北会津村宮木みやき

氷玉ひだま川東岸に位置し、西は西後庵にしごあん新田村、東は上荒井かみあらい村。本村の南西四町二〇間余に端村の西後庵がある。延文二年(一三五七)三月一〇日の西堂寺太子像銘(現亡失)に「檀主小松金家住人法心妙円二人也」とあり、この当時金家(金屋)村は小松こまつ村の端村であったと思われる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に金屋西御庵とあり、高二三九石余。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高二二二石余。


金屋村
かなやむら

[現在地名]甲良町金屋

犬上川に沿い、北落きたおち村の北の上流にある。天正一九年(一五九一)四月二七日の御蔵入目録(林文書)に「かなや村」とあり、高七四八石余。慶長高辻帳に八〇〇石余とある。慶長七年(一六〇二)の検地帳(金屋共有文書)に上田二六町余・中田一二町余・下田四町余、上畑三町余・中畑八町余・下畑四町余、屋敷一町三畝余とある。明暦元年(一六五五)には新開二反余、畑方二町九反余、見立取とあり、当地でも新田開発が奨励されていた(甲良町史)


金屋村
かなやむら

[現在地名]西区平野町堅田ひらのちようかただ

明石川の左岸に位置し、対岸は黒田くろだ村、南は繁田しげた村。正保郷帳によると田方一七二石余・畑方三三石余、「はへ山」あり。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西二五間・南北二町、人数二〇六・家数三三(うち鋳物師三)。郷蔵・土橋七・池一九(鍛冶屋池など鴨谷村立会)・藪六・自分山一五・野柴草山二(櫨谷庄七ヵ村と堅田庄四ヵ村立会。その他の村は山銭を出し柴草を刈る)


金屋村
かなやむら

[現在地名]朝日町金谷かなや

天王てんのう川下流常磐ときわ谷の東端にある。南は青野あおの村。永禄五年(一五六二)一二月一四日付景連外三奉行沙汰状(劔神社文書)に「金屋村」とみえ、つるぎ大明神(現織田町)の社領があった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「織田庄平村」(高三三六〇・八一八石)に含まれたと考えられる。正保郷帳によると田方二七石余・畠方九〇石余。大野藩領で、文政七年(一八二四)五月の申年人別五人組御改帳(吉田家文書)には金谷村と記され、家数五〇(高持三六・水役一四)、人数男一〇七・女一二一。


金屋村
かなやむら

[現在地名]三木市細川町金屋ほそかわちようかなや

脇川わきがわ村の南東、美嚢みの川上流右岸に位置する。初め金屋村と書いたが、延享四年(一七四七)に金谷村と改めたという(三木郡志)。慶長国絵図に「かなや村」とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)。寛永九年(一六三二)上知され、正保郷帳では幕府領で、田方二三一石余・畑方五四石余。元禄郷帳では高三一〇石余。宝永七年(一七一〇)上野館林藩(のち石見浜田藩)松平氏領となる。


金屋村
かなやむら

[現在地名]小松町金屋町

かけはし川中流右岸(現在は左岸)にあり、西は白江しらえ村、南東はうるし村、北西は能美のみ村。中世には鋳物師などが居住し、一時は三〇〇戸もあったと伝え、村内各地から鉄糞や鉄器類の破片が多量に掘出されたという。正保郷帳では高七三石余、田方二町五反余・畑方一町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高八〇石、免五ツ五分、小物成は畳表役一匁余(出来)であった(三箇国高物成帳)。元禄八年(一六九五)の水害のため減石され、天明五年(一七八五)には田方三八石余・畑方八石余、免五ツ五分で、家数四、人数男一三・女四。


金屋村
かなやむら

[現在地名]広川町南金屋みなみかなや

中野なかの村の東にあり集落が接している。「続風土記」に、「古き文書には釜屋とあり、此村旧は名島村の金屋を業とするもの開きしより金屋の名起るといふ」とある。天正九年(一五八一)広八幡ひろはちまん神社の梵鐘が鋳造され、元禄七年(一六九四)に改鋳されたが、その時書写した古鐘銘によれば、天正九年七月二八日に「広釜屋」の工人によって鋳造されたとある。広釜屋は鋳物師の村で天正期には工人がいたとみられ、そこから金屋村の名称が起こったのであろう。


金屋村
かなやむら

[現在地名]大江町字金屋

村の中央を東西に河守街道が貫通、西はせき村、東は上野うえの村、南は波美はび村に接する。北側に山地を背負い南面した山麓台地にある塊村である。

慶長検地郷村帳に高三七五・三一石「金屋村」とみえる。土目録によれば高三八五・二二石のうち、田方は二九八・三二三石、畑方は八六・八九七石、運上のうちに撫網運上銀二匁、渋柿代銀一五匁があった。


金屋村
かなやむら

[現在地名]赤碕町竹内たけのうち

竹内村の南に位置する。村名は地内に鉄山があったことにちなむといい(以西村郷土誌)、近年まで東の山中には金屎が散在していた。拝領高は一二五石余、本免は五ツ六分。藪役銀七匁を課されており(藩史)、津田氏の給地であった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一三〇石余、竈数一二。


金屋村
かなやむら

[現在地名]福井市金屋町

福井城下西方、日野川の左岸にあり、下市しもいち村の西に位置する。北側は丹生山地が迫る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高三〇石。正保郷帳によると田方六石余・畠方二三石余。福井藩領。

金屋東部の弘祥こうしよう寺の門前に枝村寺下てらした村があった。


金屋村
かなやむら

[現在地名]新津市金屋

阿賀野川と早出はいで川の合流点付近に位置し、南は市新いちしん村、北は上金沢かみかなざわ村。案詞帳(新発田市史資料)の寛永二一年(一六四四)四月九日の項に「御蔵入金屋村と此方領内新津村と境出入之儀是又名主百姓進上可仕旨被仰下候」とあり、新津村との村境争いが記される。


金屋村
かなやむら

[現在地名]新発田市金谷かなや

五十公野いじみの村の東北に位置し、村の東端を加治かじ川が北流する。村名は郷帳類には「金屋」とあるが、「金谷」と記す史料もある。新発田藩領で、慶長一七年(一六一二)の御蔵納同払方帳(新発田市史資料)に五十公野組蔵入として一六石一斗余。


金屋村
かなやむら

[現在地名]美濃加茂市山之上町やまのうえちよう 金谷かなや

山之上八ヵ村の一つ。中之番なかのばん村の北に続く。「濃州徇行記」によれば、田方は打出しとも本田一〇町五反余と山田五反余、畑方は本畑七町二反余と山畑四町九反余。山間にあり田は谷通りに、畑は山上に多くあり、土地は悪い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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