日本歴史地名大系 「宮島浦」の解説 宮島浦みやじまうら 徳島県:徳島市旧板野郡地区宮島浦[現在地名]徳島市川内町(かわうちちよう) 宮島・宮島浜(みやじまはま)松岡(まつおか)新田・富吉(とみよし)新田の南に位置し、東は江子(えご)川(現宮島江湖川)を挟み別宮(べつく)浦(下別宮)・小松(こまつ)新田、南西は鶴島(つるじま)浦。古くから水上交通の拠点とされ、廻船業で栄えた。慶長二年(一五九七)の分限帳に宮島とみえ、二四石余が置塩領で、ほかに塩方八〇石と記される。置塩領は同八年に蜂須賀至鎮に与えられ、徳島藩領となった(渭水聞見録)。正保国絵図では高二四石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳でも高二四石余で、畠方のみ。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高六三石余。享保二年(一七一七)の家数人数指出帳(川内村史)によると、家数一八四・人数七八四(うち男の役負一四九・役外二一六)、廻船数一六、牛七・馬一一〇。「阿波志」によると土田の等級は下、陸田一〇分の八・水田一〇分の二、反別三〇町一反余、租税二三五石、家数一五九。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高一九一石余。旧高旧領取調帳では蔵入地三二四石余。当浦は板野郡における加子(水夫)の中心地の一つで、天正一三年(一五八五)の蜂須賀氏入国の際には当浦の坂東仁助が船頭に任じられたという(宝生寺文書・「川内村史」)。寛文年間には家数一一三軒に対し一軒五匁の加子役銀が課されていた(川内村史)。享保年間には本役一五六人半・三貫一三〇匁の加子役銀が課され、藩主の参勤交代時には四〇人ほどの加子が動員されたという(「申上覚」川内村史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報