津田浦(読み)つだうら

日本歴史地名大系 「津田浦」の解説

津田浦
つだうら

[現在地名]徳島市津田町一―四丁目・津田本町つだほんちよう一―五丁目・津田西町つだにしまち一―二丁目・津田浜之町つだはまのちよう津田海岸町つだかいがんちよう新浜本町しんはまほんちよう一丁目

沖洲おきのす浦の南、新町しんまち川河口部津田口南方にある島。西方に津田山があり、南は勝浦かつうら川河口部かごノ口北側にあたる。建仁三年(一二〇三)一一月日の春日社政所下文案(春日大社文書)にみえる奈良春日社領「津田嶋」の遺称地。同島は翌元久元年(一二〇四)立券された同社領富田とみだ庄に包摂された(同年九月日「富田庄立券状案」同文書)。天正五年(一五七七)夏、一宮いちのみや城の一宮成助(成祐)と敵対する矢野駿河守・篠原肥前入道自遁は、南方みなみがたの敵を差置いて北方きたがたに攻め上った。駿河守は船で「津田」に渡ろうとし、後を追って勝浦川を越えてきた南方勢を打破ったのち津田で自遁と合流、勝瑞しようずい(現藍住町)へ帰った(阿州古戦記・三好家成立記)。同一三年八月六日、蜂須賀家政は津田浦から阿波に入ったという。

慶長二年(一五九七)の分限帳によれば津田の三五石余が梯三蔵の知行分。同九年、森甚五兵衛(村重)は阿部山御狩の折、森志摩守より分知の五〇〇石を差戻すよう命じられ、津田浦において屋敷を与えられている。甚五兵衛は翌一〇年には蜂須賀氏から朝鮮での軍功として与えられていた一一五石に加え、新知高六〇〇石を与えられた(阿淡年表秘録)。同一五年志摩守が没し(「森志摩守家来へ被仰出書」徴古雑抄)、元和二年(一六一六)甚五兵衛が森家本家を相続、その後椿泊つばきどまり(現阿南市)へ帰った。元和二年には森志摩守旧臣の判形者中に堪忍分として津田村高一五〇石が宛行われている(「判形者へ被仰出書」同書)正保国絵図に津田浦とみえ、高二二一石余、新田と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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