宮川荘(読み)みやがわのしょう

百科事典マイペディア 「宮川荘」の意味・わかりやすい解説

宮川荘【みやがわのしょう】

若狭国遠敷(おにゅう)郡の荘園で,宮河荘ともみえる。鎌倉時代中期からは賀茂(かも)荘と称された。現在の福井県小浜(おばま)市域に比定される。荘域は国衙(こくが)領の宮川保と接し,一部は入り組んでいたと考えられる。1090年賀茂別雷(かもわけいかづち)神社領として立荘され,住人は神人(じにん)として勅事・国事などを免除されていたという。1184年の後白河院庁牒に宮河荘とみえ,1265年の若狭国惣田数帳写では〈賀茂荘三十五町〉が当荘分にあたる。同田数帳には宮河保内に〈賀茂出作田〉5町余があった旨記すが,これは1230年代に宮川荘・宮川保間で帰属をめぐって相論となった大谷村矢代(やしろ)浦などにあたると考えられる。本家・領家職は賀茂社司らが相伝したとみられるが,預所(あずかりどころ)職は12世紀中期,鳥羽院伺候(しこう)した賀茂保久の女上総が院より宛行(あておこな)われ,以後賀茂氏出身の院女房が相伝,13世紀後期まで社家から離れていた。1493年の年貢算用状によれば本家方の年貢高は72石余で,当時守護武田氏により半済(はんぜい)が行われていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「宮川荘」の意味・わかりやすい解説

宮川荘 (みやがわのしょう)

宮河荘とも書き,賀茂荘とも称した。若狭国遠敷(おにゆう)郡(現,福井県小浜市)の荘園。1090年(寛治4)朝廷寄進により賀茂別雷(かもわけいかずち)神社領として立荘した。1265年(文永2)の若狭国大田文に見える〈賀茂庄三十五町〉がこれに当たる。同大田文にはなお国衙領宮河保内に〈賀茂出作田五町壱反六十歩〉があった旨記すが,これは1230年代に至りその帰属をめぐって荘・保間の争いを生んだ〈大谷村,矢代浦〉などに相当するものと思われる。本家・領家職はいずれも賀茂社司らが相伝知行したと思われるが,預所職は12世紀中期,鳥羽院に伺候した賀茂保久の女上総が院より宛行われ,以来賀茂氏出身の院女房が代々これを相伝し,13世紀後期に至るまで社家の手を離れていた。年貢等に関しては早い時期の事情は明らかでないが,1493年(明応2)の本家方年貢算用状には合計72石1斗5夕の年貢高が記されている。この算用状が本家方に関するものであるのは,当時守護武田氏により半済が行われていたからで,やがて〈賀茂庄三方へ取分候〉といわれる事態も生じ,社家の支配は著しく後退した。荘名所見の最終年次は1577年(天正5)である。
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