宿久庄(読み)すくのしよう

日本歴史地名大系 「宿久庄」の解説

宿久庄
すくのしよう

現茨木市中央西部、北摂山地の麓に位置。古代の島下しましも郡宿久郷(和名抄)の地。宿庄とも書き、宿久庄しゆくのしよう地名が残る。領有関係はかなり入組み、京都仁和寺領宿久庄、中宮職領宿久御庄(宿久御園)、京都青蓮院門跡領宿久山すくやま庄のほか、国衙領宿久村、近衛家を本所とし奈良春日社を領家とする垂水東たるみのひがし(大部分は現吹田市)に属する地、勝尾かつお(現箕面市)が地主的に加地子を領有する地もあった。

仁和寺領については安和二年(九六九)七月八日の法勝院領目録(仁和寺文書)に「摂津国島下郡宿久庄田地参町参段佰陸拾歩」とみえ、条里坪付から田地は現宿久庄地区南東部、勝尾寺かつおじ川流域の八条二里・九条二里の地に散在していたことがわかる。仁和寺領としては戦国時代初期まで続いたらしく、応仁・文明の乱後のものとみられる摂津国寺社本所領并奉公方知行等目録(蜷川家文書)に御室(仁和寺)領として「宿庄」がみえるが、当時すでに不知行となっていた。中宮職領宿久御庄(宿久御園)は、藤原南家の貞嗣系で信濃・摂津の国守、中宮大進・皇后宮亮・東三条院判官代を歴任した藤原佐光が、国守在任中に開発したものをまもなく中宮職に寄進したものである。「小右記」寛仁二年(一〇一八)五月三〇日条に、摂津国桜原さくらはら(現豊中市か)下人二人が乱妨を受けた事件は中宮大進佐光の所為で「件宿御庄、佐光為摂津守之時所立也、桜原庄寄人十人、佐光放免符、而其後可為宿御庄人之由、改放国符、奇恠事也」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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