密厳院(読み)みつごんいん

日本歴史地名大系 「密厳院」の解説

密厳院
みつごんいん

[現在地名]高野町高野山

苅萱かるかや堂の南にある。準別格本山。本尊金剛界大日如来。近世苅萱堂を中心とした安養あんよう成仏じようぶつ院の子院の一であった。密厳院は大伝法だいでんぼう院を開いた覚鑁の私房で、「続風土記」には大治五年(一一三〇)建立とみえる。道場観集(西南院蔵)に大治五年二月一五日に密厳院東面で書した旨の奥書があるので、これ以前に堂舎のあったことがうかがわれる。その後、大伝法院とともに鳥羽上皇勅願寺となり、長承元年(一一三二)一〇月一七日には上皇臨幸のもと八角一間八面の堂の落慶供養が行われた(高野春秋)。長承二年一一月日の高野山沙門覚鑁申文(根来要書)にも「太上天皇御願寺」とみえ、落慶と同時に紀伊国相賀おうが荘が寺領として鳥羽上皇から認められた。

密厳院
みつごんいん

[現在地名]上尾市藤波

藤波ふじなみの西境近くにある。瑞露山藤波寺と号し、臨済宗円覚寺派。本尊は聖観音。「風土記稿」によると、古くは新義真言の道場であったが衰微し、明応年間(一四九二―一五〇一)に、比企郡おもて(現川島町)養竹ようちく院を開いた叔悦禅懌を迎え、臨済宗に改めて再興されたという。しかし「円覚寺史」によれば、開山叔悦は永正一七年(一五二〇)に鎌倉円覚寺不閑軒より円覚寺住持第一五〇世に昇ったのち当寺の復興に着手したとし、その時期は大永―享禄期(一五二一―三二)と推定している。叔悦は岩付いわつき(現岩槻市)の太田資清の子といい、天文四年(一五三五)七月一六日没。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報