藤波村(読み)ふじなみむら

日本歴史地名大系 「藤波村」の解説

藤波村
ふじなみむら

[現在地名]能都町藤波

宇出津うしつ町の西に位置し、南は内浦に臨む。村内を内浦街道が通り、西の間島ましま・へたのはま(辺田浜)垣内がある(三州志)。藤並・藤浪とも記す。年次に検討の余地がある文応二年(一二六一)六月一三日の諸橋六郷田数目録(諸橋稲荷神社文書)に「藤並」とある。延徳三年(一四九一)七月には、藤並から諸橋もろはし稲荷神社(現穴水町)への社納一貫文が未進となっている(「稲荷宮神役申状案」同文書)。永正四年(一五〇七)四月四日の岩倉寺千手観音棟札(岩倉寺蔵)によれば、藤並次郎左衛門が一貫三〇〇文を奉納している。同一五年三月に能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」に「藤波」の地名が、享禄五年(一五三二)五月の穴水村・諸橋六郷長衆交名案(諸橋文書)に諸橋六郷衆として「ふちなミ」の七郎右衛門尉の名がみえる。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によると、「藤なミ村」で棟役を負担する役屋は六七間とある。


藤波村
ふじなみむら

[現在地名]上尾市藤波一―四丁目・藤波・泉台いずみだい三丁目・中分なかぶん一―六丁目

領家りようけ村の北、川の低地に延びる大宮台地上にある。北と東は下日出谷しもひでや(現桶川市)。村名は藤浪とも記される。天正一三年(一五八五)四月五日の北条氏政印判状写(武州文書)では、藤波与五右衛門に対し調儀に備えて五月五日までに軍装を整備するよう命じられている。同一五年と推定される亥三月一九日の太田氏房印判状写(同文書)では、「藤波山」から岩付いわつき(現岩槻市)修理のための材木が伐り出され、これを受取るための人足が徴発されている。


藤波村
ふじなみむら

[現在地名]大野町田中たなか 藤浪ふじなみ

若宮わかみや村の北西よろいヶ岳南麓にある。天正一五年(一五八七)九月二五日の原鎮元等連署打渡状(竹中家文書)によれば、清田治部入道跡奥大野二三〇貫のうち「藤波」の町屋敷代所五文目など五貫文が竹中宮内少輔に打渡されている。正保郷帳に村名がみえ、田高七三石余・畑高一六石余、藤北ふじきた郷に属し、柴山有、日損所と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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