富士上方
ふじかみかた
中世、富士郡を二つに分けた場合の富士下方に対する広域地名。富士山の西麓の現富士宮市および富士郡芝川町域、富士市の北部を含む地域に比定される。
古代以来富士山を神体とし、富士信仰の中心である富士浅間社(富士山本宮浅間大社)が鎮座、中世富士上方地域は同社の信仰圏で神領も多かった。他方鎌倉時代、日蓮とその弟子日興の活動により当地一帯に教線が拡大し、日興は正応三年(一二九〇)上野郷内に大石寺を、永仁六年(一二九八)重須郷内に本門寺(北山本門寺)を創建。室町時代初期に日興の弟子日郷が小泉郷内に久遠寺を建立、ほかに上野郷下条に妙蓮寺(以上、現富士宮市)、西山郷内に西山本門寺(現芝川町)が建てられ、日蓮宗富士派(興門派)の富士五山と通称された。
日興が本尊を分与した弟子を列記した永仁六年の日興本尊分与帳(北山本門寺文書)によれば、富士上方の住人河合少輔公日禅、富士上方曾比奈郷住人楠王児、富士上方成出郷給主南条平七郎母尼がみえ、このほか上野郷の南条時光、重須郷の石河(石川)道念、西山(郷)河合光家など有力な弟子がいた。南条氏・石川氏・河合氏などの外護で寺地を寄進され、富士五山が建立された。徳治二年(一三〇七)二月一七日の得宗家奉行人奉書(大石寺文書)によれば、富士上方上野郷の一部給主新田五郎後家尼蓮阿の訴えを受けた北条得宗家が、南条時光に弁明を求めている。当時上野郷は北条得宗家被官の南条氏が支配していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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