富士郡(読み)ふじぐん

日本歴史地名大系 「富士郡」の解説

富士郡
ふじぐん

面積:七四・一八平方キロ
芝川しばかわ

静岡県中央部東寄りに位置する郡。所属の自治体は芝川町のみ。かつては駿河国東部に位置し、東は駿河郡(近世は駿東郡)、西は廬原いおはら(中世・近世は庵原郡)、甲斐国、北は同国に接する。富士山が郡北東部にあって、その裾野が広がる。郡南部西端を流れる富士川の流路は変動があり、古代には現在よりも東を流れていたと思われる。古代から近世の郡域はほぼ現在の芝川町・富士市・富士宮市に相当する。

〔古代〕

和名抄」東急本国郡部に「浮志」の訓がある。同書諸本には異同があるが、島田しまだ小坂おさか古家ふるいえ蒲原かんばら駅家うまや大井おおい久弐くに姫名ひな神戸かんべの九郷がみえる。ただし蒲原郷は廬原郡蒲原郷の重出か、駅家郷と同一の郷であるかのいずれかであろう。天平七年(七三五)一〇月の平城京跡出土木簡(「平城宮木簡概報」二二―二三頁)に「富士郡嶋田郷鹿野里」などとみえる。ただし「日本書紀」皇極三年七月条に東国の不尽河(富士川)付近の大生部多が村人に虫を常世神として祀るように勧め、民を惑わした罪で秦造河勝に処罰されたとある。この大生部多が所在したのものちの富士郡とみられる。天平一九年九月二六日の勅旨(東大寺要録)によると、奈良東大寺の食封一千戸のうちに「駿河国百戸益頭郡五十戸、富士郡五十戸」があった。「富士郡五十戸」の所在地は不明だが、天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)に「富士郡五十戸料、久弐郷」とみえ、平安期には久弐郷が東大寺の封戸であった。年未詳の正倉院調庸関係銘文(正倉院宝物銘文集成)に「駿河国富士郡久弐郷戸主□□□□調布壱端」とみえる。延喜二年(九〇二)には富士郡の官舎が群盗によって焼かれた(「扶桑略記」同年九月二六日条)。「延喜式」神名帳にみえる富士郡三座は「倭文神社(現富士宮市星山の同名社に比定)・「浅間神社」(現同市宮町の富士山本宮浅間大社に比定)・「富知神社」(現同市朝日町の富知神社に比定)である。富士郡家を現富士市伝法でんぼう三日市みつかいち付近とする説もある。

富士郡は、大化前代には駿河郡と一体の地域であったと考えられるので、古墳分布をみる際には富士山南麓全体のなかでみる必要がある。まず現富士市須津すどに全長一〇三メートルの前方後方墳浅間せんげん古墳が築造され、葺石や円筒埴輪から四世紀後半の古墳とされる。次に同市比奈ひなには前方後円墳東坂ひがしざか古墳(全長六〇メートル)が築造される。以後、この愛鷹あしたか山麓には大型前方後円墳はつくられなくなり、東田子ひがしたごうら砂丘上に現沼津市松長まつなが神明塚しんめいづか古墳(前方後円墳)、富士市東柏原新田ひがしかしわばらしんでん庚申塚こうしんづか古墳(双方中方墳)やまかみ古墳(前方後円墳)の順で築造される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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