日本歴史地名大系 「富士下方」の解説
富士下方
ふじしもかた
中世、富士郡を二つに分けた場合の広域地名と考えられ、富士上方に対する地名。下方庄・下方郷、単に下方とも記される。現富士市域のうち
寛元二年(一二四四)一二月二日付鎌倉幕府政所奉行人連署奉書写(近衛家本式目追加条々)によれば、「富士下方内諸社供僧」らに式日の神事を懈怠することなどをやめるよう告げることを、富士下方政所代兵衛六郎に命じている。弘安二年(一二七九)一〇月日の滝泉寺日秀・日弁等申状案(中山法華経寺文書)によると、富士下方の
康安二年(一三六二)五月二八日今川範氏は福島左近将監の所領であった「富士下方内案主名半分」を伊達景宗に与えている(「今川範氏書下」駿河伊達文書)。応永二三年(一四一六)四月八日、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報