富屋町(読み)とみやちよう

日本歴史地名大系 「富屋町」の解説

富屋町
とみやちよう

[現在地名]兵庫区西仲町にしなかまち・兵庫町二丁目

鹿屋ししや町の北に接する岡方の町で、地方一八町の一。明和六年(一七六九)の兵庫津絵図(鷲尾家蔵)には木場きば町の西側、山陽道の一筋西の南北通りに町名がみえるが、元禄九年(一六九六)の兵庫津絵図井家蔵)では長福寺ちようふくじ町と記されており、時期は特定しがたいが町名の改称があったとみられる。享保二年(一七一七)の勤用録井家文書)に富屋町がみえるので改称はそれ以前であろう。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)によると長福寺町の屋敷地八筆。


富屋町
とみやまち

[現在地名]丸亀市富屋町

城の北側に位置する。「西讃府志」に「塩飽町堀側ヨリ東ニ続キ通町ニ至ル、町長一町三十間二尺、北ニ折レテ横町ニ出ル、一町四十間三尺、妙法寺ヨリ横ニ折レテ東通町ニ至ル、長南側三十三間、北側二十一間三尺」とある。東はとおり町、西は塩飽しわく町、北はよこ町、南は外堀を挟んで一番丁。万治年間(一六五八―六一)の城下図には新町と記され山崎氏時代に成立したと考えられるが、当地の稲荷大明神は慶長四年(一五九九)那珂なか村から移されたといわれ(西讃府志)、また生駒氏時代には武器庫が建てられ鍛冶職の町が形成されたとされるが不明。


富屋町
とみやちよう

下京区高倉通五条下ル二丁目

南北に通る高倉たかくら(旧高倉小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京六条四坊二保四町東側と同五町西南隅、平安中期以降は六条高倉小路の北の地。町内東側には三十六歌仙の一人平兼盛の邸があった。「山城名勝志」には「平兼盛ノ家或京程図在六条北高倉東」と記載される。また、院政期には町の西側は六条内裏であった(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「舛や町」とあるが、寛永以後万治以前京都全図では、「舛屋丁」と「留屋丁」に区分され、「留屋丁」が「富屋町」にあたると考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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