丸亀城下(読み)まるがめじようか

日本歴史地名大系 「丸亀城下」の解説

丸亀城下
まるがめじようか

丸亀平野北部のかめ山に築かれた丸亀城を中心に形成された近世城下町。同平野を北流して瀬戸内海に注ぐ土器どき川河口部左岸にあり、北は瀬戸内海に面し、沖合塩飽しわく諸島うし島・ほん島などと対する。丸亀城の前面にあたる北側に城下町が形成された。当地は東側が鵜足うた津野つの(寛永一七年の生駒領高覚帳では三千三四八石余)、西側が那珂なか柞原くばら郷に属し、丸亀浦(同帳では四〇六石余)とよばれる地であった(西讃府志)。応仁年間(一四六七―六九)聖通寺しようつうじ(現綾歌郡宇多津町)城主で細川四天王の一武将奈良元安により亀山支城が築かれたとされるが(南海通記)、城下町形成は生駒氏の築城以後である。

〔城下町の建設〕

天正一五年(一五八七)讃岐国一五万石を封ぜられて高松城に拠った生駒親正は、慶長二年(一五九七)西讃の拠点として丸亀城築城を開始し、子の一正に西讃を治めさせた。関ヶ原の戦後一正が一七万一千八〇〇石余を襲封して高松城に移ったため、丸亀城は元和元年(一六一五)の一国一城令による廃城まで城代時代と生駒氏時代を経た(生駒記)。城下町の建設は、慶長六年鵜足郡御供所ごぶしよ(現坂出市)宇多津うたづ平山ひらやま(現宇多津町)から住民を移住させて三浦、すなわち御供所町・北平山町・西平山町を形成したことに始まる。生駒氏は寛永一七年(一六四〇)生駒騒動により出羽国へ転封されるが、万治年間(一六五八―六一)の城下図に記された古町は生駒氏時代に形成されたと考えられる。同図の古町には前掲三町とよこ町・塩飽町上南条かみなんじよう町・下南条町はま町の一部の地域が該当する。廃城以後の城下の状況は明らかではないが、一部住民が高松城下に移住したと伝える。

生駒氏転封後の寛永一八年、山崎家治が五万六七石余で入封、同二〇年丸亀城の再築に着手し、正保(一六四四―四八)頃竣工した(寛政重修諸家譜)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の丸亀城下の言及

【丸亀[市]】より

…江戸時代に藩の奨励で始まったうちわの生産は日本一を誇る。【坂口 良昭】
[丸亀城下]
 讃岐国の城下町,瀬戸内海交通の要地。地名は1597年(慶長2)に生駒親正が讃岐西部の支配のために那珂郡亀山に支城を築き,これを丸亀城と称したのに始まる。…

※「丸亀城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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