長福寺(読み)ちょうふくじ

精選版 日本国語大辞典 「長福寺」の意味・読み・例文・類語

ちょうふく‐じチャウフク‥【長福寺】

  1. 奈良県生駒市俵口町にある真言律宗の寺。山号は金龍山。推古天皇二五年(六一七)聖徳太子の創建と伝えられる。寺宝の金銅能作生塔は国宝。

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日本歴史地名大系 「長福寺」の解説

長福寺
ちようふくじ

[現在地名]右京区梅津中村町

かつら川の北、梅津うめづのほぼ中央に位置する。大梅山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊阿弥陀如来。梅津荘の開発領主梅津氏の後裔、尼真理によって仁安四年(一一六九)に創建された尼寺。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

真理は春宮大夫公行の女で、梅津荘第一三代播磨前司入道青蓮の養女という。真理が作成した治承元年(一一七七)一二月日の長福寺縁起(長福寺蔵)によると、真理は京都に住んでいたが住居が焼失したため、梅津荘に建立してあった堂舎に古仏を安置して寺とした。仁安四年二月二二日に園城おんじよう(三井寺、現滋賀県大津市)の信暹を招き開眼供養を行い、観金・尊空の両供僧と住僧妙覚を置いて長日例時の懺法を修した。落慶供養は翌嘉応二年(一一七〇)一〇月三日、安居院あぐい(現京都市上京区)の澄憲が導師を務めた。経済的裏付けとして、梅津荘の新荘・上御荘・深草名の田畠を仏聖灯油、恒例の講筵供田料として寄進。堂宇として御堂・松尾明神ほかを祀る惣社・僧坊などが確認できる。長福寺縁起は勤修すべき法要についてはすこぶる詳細で、惣社・御堂仁王講、舎利講、阿弥陀講、観音講、地蔵講、釈迦講が毎月定例。年例として修正会・弥勒講・涅槃講・聖徳太子聖霊講・彼岸会・盂蘭盆会が修せられ、ほかにも各経の読誦、忌日の誦経などの規定が記される。

〔新御堂の建立と寺領紛争〕

その後、建久元年(一一九〇)九月二七日に上御荘の「古川上一反小」に堂宇を建立、新御堂と称した。これに対し古い堂を本御堂とよんだらしいが、のちにこの本御堂は堂宇を解いて真理の屋敷に移し、敷地は近衛家に返還したという。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]七尾市今町

舟越山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。明応九年(一五〇〇)教忍(恩)の建立という(能登志徴)。永正一八年(一五二一)以後の九月二八日付の遊佐秀盛寄進状(寺蔵文書)によれば、能登守護代遊佐秀盛が教恩房に道場造営料として毎年一千疋ずつ寄進している。教を法名の通字とするところから、教恩は一五世紀末府中ふちゆうに来住した近江の真宗坊主舟木の教念の系譜を引く人物と考えられ、天文二〇年(一五五一)一二月二五日、能登畠山七人衆の使者として本願寺証如のもとへ赴いた教覚ともかかわるものであろう(本福寺門徒記・天文日記)


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]北区大森東町

普門山と号し、臨済宗大徳寺派。本尊は観音菩薩。明治五年(一八七二)の禅宗臨済派寺院明細写(長福寺蔵)は天和三年(一六八三)の創建で、開祖は端堂紹粛とするが、大正一三年(一九二四)改めという過去帳の長福寺歴代住職には、「開山大徳寺正受院第二世大寂法眼禅師、正徳三年(一七一三)十月二十六日示寂」「中興圭峯宗王座元禅師、元禄五年(一六九二)十月二十九日示寂」とあり、相前後する人物を開山・中興とし、混乱がある。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]英田町真神

神田こうだ集落の東にある真言宗御室派の寺院。真木山と号し、本尊は行基作と伝える木造十一面観音像で、国指定重要文化財。もとは北方の真木まき山頂にあったが、昭和三年(一九二八)現在地に移る。「東作誌」などによれば、天平宝字元年(七五七)孝謙天皇の勅願所として鑑真が開山したという。また京都仁和寺末とあり、弘安八年(一二八五)円源が再興し、のち三〇余坊が建並ぶほどに興隆した。中世、寺地は渋谷氏が地頭職を相伝した河会かわえ(郷)内にあり、建治三年(一二七七)一〇月二一日の渋谷重経置文案(入来院文書)によれば、重経が「十丁の御たう」に田半分を寄進していることがわかるが、御堂は当寺のことか。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]岡崎市竜泉寺町 前田

海運山と号し、日蓮宗。もと越後国本成ほんじよう寺末。それ以前の本寺は京都本禅ほんぜん寺。本尊釈迦如来。江戸時代は門徒五ヵ寺・八聖跡の寺格を保つ。

元禄一一年(一六九八)長福寺日成の花押のある「参州尾尻村長福寺由緒書」(長福寺文書)によると、往古は天台宗寺院で「曼荼羅ニ文保二戊午年長福寺別当常住」とあり、「京本禅寺日求聖人書状ニ印師已来ノ寺」とある。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]清水市山原

錦屏山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。開山は鎌倉建長寺開山蘭渓道隆の四哲の一人で、同寺一五世の仏灯国師約翁徳倹。天文七年(一五三八)六月一二日の今川義元判物(長福寺文書)によれば、長福寺英蔵司が寺領等を与えられている。弘治二年(一五五六)から永禄元年(一五五八)頃の臨済寺・善得寺等諸塔頭・諸末寺帳(臨済寺文書)によれば当寺は臨済りんざい(現静岡市)の末寺で、承英蔵司死後の当寺領は御局の所務となっている。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]志度町鴨部

旧志度街道が馬次うまつぎから羽立はりゆう峠にかかるところ、道の南側にある。千手山総持王院と号し、真言宗善通寺派。本尊千手観音、脇士は不動明王と毘沙門天。寺伝では天長元年(八二四)空海が石田いしだ(現寒川町)極楽寺を鴨部東山かべひがしやまに移して再建した時、南に来覚らいがく寺、北に長福寺を建て、下張したばり大明神を勧請し鎮守としたという。宝蔵院古暦記(松浦文書)も天長元年創建とする。しかし極楽寺は南北朝頃に長尾ながお(現長尾町)に移されて宝蔵ほうぞう院と号し、来覚寺も早くに退転した(讃岐国名勝図会)。当寺南に談議所だんぎしよという地名が残るが、同地が極楽寺跡と伝え、極楽寺はかつて東讃四郡の談義所であったという。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]鶴岡市湯田川

由豆佐売ゆずさめ神社の南下、湯田川ゆたがわ温泉正面しようめんの湯の左筋向い方向にある。大日山と号し、真言宗豊山派。縁起によれば大同二年(八〇七)の開創とされ、聖徳太子作の秘仏と伝える十一面観音を本尊とする。かつては大和長谷はせ(現奈良県桜井市)の直末で配下に七坊を従え、庄内五檀林の一といわれた。由豆佐売神社の別当寺を勤めた。慶長一七年(一六一二)最上義光から大日山領一五五石余の黒印状一九通が与えられた。延宝九年(一六八一)の庄内寺社領高付帳などによれば大日山領は田川湯たがわゆ村にあり、うち三〇石余が学頭妙(明)幢院長福寺領、計六六石余が大門坊金剛院・成就坊成就院・西林坊及善院・智光坊徳正院・橋本坊延命院・城(枝)林坊及光院・妙(明)光坊妙(明)光院の七坊に、一二石余が仏供田、一〇石余が灯明田、四石余が八講料などに与えられていた。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]掛川市本郷

天竜浜名湖鉄道原谷はらのや駅の北東にある曹洞宗寺院。山号は安里山、本尊は聖観音。行基の草創と伝える。元慶八年(八八四)延暦寺座主智証が来住して中興、このとき天台宗となったという。現奈良県天川てんかわ村の大峯山おおみねさん寺が所蔵する梵鐘の追刻は天慶七年(九四四)六月二日の年紀をもち、「遠江国佐野郡原田郷 長福寺鐘」とある。伝説によると、長暦元年(一〇三七)修験者が長福寺に止宿して修力の功験の論議となり、住僧から金剛杖で楼上の鐘を持去ることを許されると、即ち鐘を提げて空中を飛行して去った。のち鐘が大和国の大峯山に懸かるのを見て参詣者が驚異したという。「掛川誌稿」は「大和志」の建武年間(一三三四―三八)に南朝の北畠顕家軍が掠取して大峯山に移したとの説を引き、この大峯の伝説は実説に近いとしている。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]川西町中屋敷

中屋敷なかやしきの集落西方にある。背後に千手せんじゆ城跡がある。曹洞宗、竜雲山と号し、本尊は定朝作と伝える釈迦牟尼仏。寺伝によると、永享八年(一四三六)没の越前国丹生にう高瀬たかせ(現福井県武生市)宝円ほうえん寺四世高巌理柏を開山とする。初め沖立おきだて村にあったが、のち現在地に移ったという。永禄二年(一五五九)三月吉日の千手城主の下平吉長寄進状(長福寺文書)によると、寺領五五〇苅を寄進された。当寺は下平氏の菩提寺で、代々帰依を受け、下平吉長を中興開基としている。天正六年(一五七八)六月一四日の上杉景勝書状(歴代古案)には長福寺の名がみえる。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]佐和田町中原

東福とうふく城跡の堀を隔ててすぐ西側にある。談義所だんぎしよ坊ともいう。真言宗智山派、久々里山と号する。本尊善光寺如来。「佐渡国寺社境内案内帳」に「先年当寺常談林にて、珍空山談議所無量寿院長福寺と号す、享保元申年長福寺と云ふ。お上より御停止に依て坊号を用る」とあり、享保元年(一七一六)までは長福寺と称していた。天正一三年(一五八五)に河原田本間氏と雑太本間氏の出した二通の制札がある。このことは当時雑太氏と河原田氏との間に争乱の起きたことを予想させる。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]音羽町赤坂 西裏

浄土宗、三頭山と号す。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、長保年中(九九九―一〇〇四)当国の長者宮路弥太次郎長富が娘力寿の菩提のために創立、三河守大江定基が寄付した恵心僧都作の聖観世音を安置し、釈真遠を住まわせて長富寺と号したという。承久(一二一九―二二)の頃放火のため堂宇が焼失。永仁四年(一二九六)に沙門玄徳が再建。その後応仁(一四六七―六九)の頃は衰微して空房となっていたが、大永二年(一五二二)浄土宗僧善誉慶印が再興し、宮路弥太次郎の宅跡へ堂宇を建立し、阿弥陀仏を安置して三頭山妙寿院長福寺と改めたという。「赤坂村誌」所引の縁起に「長保年中、定基力寿ノ死セルヲ悲ミ、叡山ニ登リ恵心僧都ノ室ニ入リ得度シ、寂照ト改名ス。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]いわき市小川町下小川 上の台

小川山と号し、真言律宗。本尊延命地蔵菩薩。長福寺縁起(当寺蔵)によれば、元亨二年(一三二二)当地の領主小川入道義綱が、鎌倉極楽寺の慈雲を請じて開山として創始したという。以後当地方の真言律宗の中心的存在であった。正中元年(一三二四)二月九日の小河義綱寄進状(同縁起)によれば、「塩田之村并山境事」が長福律寺に寄進されている。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]小川町飯田

飯田いいだの北部にある。高勝山恵覚院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀三尊。当寺の縁起を記した堂寺由来之事写(埼玉叢書)によれば、開山の永弁は治安元年(一〇二一)に没したという。その後一時中絶したが、康安年間(一三六一―六二)長尾高勝が菩提所として堂舎を建立し、栄範が開山となり再興された。当寺の山号・寺号は高勝の諱と法号長福院に由来する。また延徳二年(一四九〇)再び火災にあい衰微した時期があったと伝える。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]大子町頃藤

久慈川左岸の長福山山麓に位置し東勝山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。寺伝によると長元二年(一〇二九)梅関が律宗の寺として女体によたい(現長福山)山頂に創建したが、文明元年(一四六九)佐竹氏の同族のたて城主小川和泉守が曹洞宗耕山こうざん(現常陸太田市)より大通詮甫を招いて改宗し、同二年舘城郭内に移した。さらに永正三年(一五〇六)二世亀山の代に和泉守の同族義勝と諮って現在の宮平みやだいらの地に移したという。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]久慈市中町

三角さんかく山山麓にあり、松峰山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦如来。寛永六年(一六二九)瑞雲ずいうん(現宮古市)六世本室寿宗が開いたと伝える。明和八年(一七七一)庫裏再興、天明二年(一七八二)宝殿落成などと記す棟札があったが、昭和四七年(一九七二)の火災により県指定文化財の木造薬師如来像とともに焼失した。文政(一八一八―三〇)の頃法光ほうこう(現青森県三戸郡名川町)に宛てた口上書(寺蔵文書)に「拙者末社長内村薬師堂ハ、大同二年(村脱カ)丸将軍奥州下向之砌建立ノ由」とあり、薬師如来像はこの薬師堂から明治初年神仏分離の際に移されたもので、薬師堂はのちに蛭子ひるこ神社となった。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]宇治田原町湯屋谷

田原たわら川最上流にあり、金剛山地蔵院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。享保一一年(一七二六)寿誉によって記された寺蔵の由緒書などによると、養老年中(七一七―七二四)この地に湯泉が湧出したことにより、行基が薬師如来を本尊とする温泉山湯原ゆはら寺を建立、奈良興福寺の末院としたのに始まるという。湯原寺は一に金剛寺ともいい、延元四年(一三三九)南北朝の争乱によって足利氏の焼打ちに遭い、本尊は老中おいなか(現宇治田原町)にあった弘法こうぼう寺に移したと伝える。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]川内村上川内 三合田

村の中心部の北西方にあり、北西に諏訪神社が鎮座する。洞秀山泰享院と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。永享一二年(一四四〇)上川内村台窪だいくぼ館主であった遠藤筑前守親政により天台宗として開創。慶長元年(一五九六)折木おりき(現広野町)東禅とうぜん寺四世大超泰椿を開山として迎え、曹洞宗となる。文政六年(一八二三)に釈迦如来坐像が寄進されるまで本尊仏であった木造虚空蔵菩薩坐像には、「康永三年きのへのさる閏二月十四日筑前法橋銓」の墨書銘があり、県指定重要文化財。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]八幡町麓

ふもとの西部の畑の中にある。梅松山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば徳治二年(一三〇七)武藤盛氏が庄内北方の開発と民心を治めるため開基となり、満栄を開山として創建、のち応永九年(一四〇二)楠能勝の高弟慶宇が再興、弟子文寛を住まわせたという。慶長一六年(一六一一)の観音寺村検地帳写(庄司文書)に長福寺分屋敷二升とあり、また同年の常禅寺村検地帳写(堀文書)に、当寺分中田五〇刈(年貢高四斗五升余)、苗代一束刈(同一升)とある。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]柳田村柳田

重年しげとし集落の最上流、五十里いかりと境を接する台地上にあり、定光山と号し、高野山真言宗。本尊阿弥陀如来は伝行基作。貞享二年寺社由緒書上によれば、伝法の開基で、かつては支院二四坊があったが退転。応永三年(一三九六)空鑁が再興したという。天正(一五七三―九二)の兵乱以前は五十里地内にあったため「五十里の寺」「五十里の長福寺」ともよばれる。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]桜川村岡飯出

台地中腹にある。海岸山と号し、真言宗豊山派。本尊は聖観音。寺伝によれば、文安三年(一四四六)に当地を支配した東条氏の一族が創建し、大聖だいしよう(現土浦市)の俊栄を迎えて開山とした。宝徳四年(一四五二)三月一九日注記の檀那門跡相承資并恵心流相承次第(逢善寺文書)に「于時東条親類飯手方、寺家ヲ起立シテ安穏寺ヘ帰依、僅ニ御所化ヲ一人被乞候、彼左京殿ヲ住持ト号シテ被任長福寺候」とある。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]上田市大字下之郷

生島足島いくしまたるしま神社の北方にある。元和五年(一六一九)八月の上田藩御領分寺院社家領控帳(小林君太郎氏蔵)に、寺領三貫文とある。宝永三年(一七〇六)の上田藩村明細帳によれば、西前山にしまえやま村中禅寺末寺で、高長山薬師院長福寺とあるが、現在は旧東前山村前山寺末で理智山薬師院長福寺と称す。

近世末までは神宮寺とともに生島足島神社の仏事を担当していたが、明治の廃仏毀釈に際して神宮寺は廃寺となり、本尊は長福寺に移された。境内に法隆寺夢殿を模した「信州夢殿」と称する八角円堂があって銅造の菩薩立像を本尊とするが、火災で半焼したため、現在、その菩薩は本堂に安置されている。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]木曾福島町門前

山号は竜源山、臨済宗妙心寺派。永享二年(一四三〇)木曾豊方の開基と伝えられている(長福寺伝記)。開山は竺陰和尚である。本尊は釈迦如来。

木曾家・山村家の菩提寺である。昭和二年(一九二七)の福島大火に類焼し、木曾家以来の宝物・古文書なども焼失してしまった。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]北茨城市磯原町大塚

大北おおきた川の左岸やや小高い地にある。真言宗豊山派に属し、大塚山清浄院と号し、本尊は延命地蔵菩薩。寛文三年(一六六三)の開基帳(茨城県歴史館蔵)に「大塚山長福寺 清浄院」とあり、文安元年(一四四四)浄円が釈迦天神を本尊として開山、天文一六年(一五四七)海隆が中興、竜子山たつごやま(現高萩市下手綱)城主大塚掃部助の菩提所となったという。元文年間(一七三六―四一)火災に遭い、宝暦年中(一七五一―六四)再建、これが現在の本堂である。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]柏村広須 岡田

広須ひろすの国道一〇一号の交差点と桑野木田くわのきだのほぼ中間の岡田おかだに位置する。広須山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛永一九年(一六四二)七月以前の創立で開山は良求(「寺社領分限帳」国立史料館蔵)


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]緑区有松町桶狭間 寺前

名鉄有松ありまつ駅南方約三キロの地にあり、山号は和光山。西山浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来像。「府志」によれば「属濃州溝口村慈恩寺」という。中興開山は善空南立で、元禄一四年(一七〇一)に没した(徇行記)。本堂は宝暦年間(一七五一―六四)に改築され、昭和五五年(一九八〇)鉄筋の堂宇になった。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]常澄村塩崎

東茨城台地の東端の元八幡山もとはちまんやまにある。天台宗、塩崎山密厳院と号する。本尊は阿弥陀如来。水戸十ヵ寺の一。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に、応永二年(一三九五)の建立、高二二石余、門徒一九ヵ寺、百姓旦那五〇〇人とある。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]佐井村佐井 古佐井

古佐井こざいの通称谷地やち町通の北に位置する。東南に常信じようしん寺がある。祥岩山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「長福寺 祥岩山田名部円通寺末寺、曹洞」とある。慶長一七年(一六一二)の草創と伝え、開基は僧異槃、開山は秋田の僧宝舜とされる(新撰陸奥国誌)


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]千種区猪高町猪子石

紫磨山と号し、黄檗宗。本尊千手観世音菩薩。寺伝によれば、千丈道厳が天和三年(一六八三)知多郡瀬木せぎ(現常滑市)慈眼じげん寺をこの地へ移し、本尊は村の観音堂から移した。のち長福寺と改号、宇治の黄檗山萬福まんぷく寺直末とした(府志)


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]生駒市俵口町

生駒山の北東麓、田原たわらへの入口に位置する。金竜山と号し、真言律宗。本尊阿弥陀如来(室町時代)。創建については飛鳥時代・奈良時代の両説があって、はっきりしない。現本堂は鎌倉中期の建立とみられ、桁行五間・梁間三間の入母屋造・本瓦葺の建物で、国指定重要文化財。内部には須弥壇・極彩色柱・壁面の諸仏・三千仏画などみるべきものが多い。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]東予市北条 蛭子

国鉄予讃本線壬生川にゆうがわ駅の南東一キロにある。東海山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦牟尼仏、脇仏迦葉尊者・阿難尊者。

寺の周囲に塀をめぐらし、土塀には円・三角の矢狭間がある。境内は広く、南門を入ったところに、河野六郎通有の墓と称する宝篋印塔と、県指定有形文化財の銅鐘がある。


長福寺
ちようふくじ

[現在地名]安城市東端町 道城

満喜山と号し、浄土宗鎮西派。本尊薬師如来。創建年代不明。初め真言宗であったが、元和年中(一六一五―二四)に浄土宗に改宗。古文書に「今度世上就申事、別而無御等閑趣本望候、此の式少処候得共、東端領之内長福寺郷進置之候、尚於末代不可相違者也、仍如件 天文十五年三月十日 応忠 松平源三郎殿」(碧海郡誌)とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長福寺」の意味・わかりやすい解説

長福寺
ちょうふくじ

京都市右京区にある臨済宗南禅寺派の寺。平安末期に天台宗の寺院として創建。南北朝時代に臨済宗に改める。嘉応1 (1169) 年,土豪梅津氏の一族である尼真理が堂を建て古仏を安置したのが始り。寺宝として豪信筆『花園天皇像』 (南北朝時代) と,古林清茂墨跡『月林道号』 (元代) を所蔵し,いずれも国宝。前者は似絵と呼ばれる技法で描かれているのが特徴で,後者は元亨2 (1322) 年,元に留学中であった月林道皎 (げつりんどうこう) が古林清茂より与えられたもの。

長福寺
ちょうふくじ

奈良県生駒市にある真言律宗の寺。本尊は阿弥陀如来。7世紀に聖徳太子が開基として建立,8世紀に伽藍が整備されたといわれている。明らかなところでは,実詮が中興である。また,鎌倉時代に叡尊が江戸幕府の助成を得て,20年の歳月をかけて修理したとされる。鎌倉時代の『金銅能作生塔』 (国宝) を所蔵。鎌倉中期建立とされる本堂は重要文化財に指定されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

防府市歴史用語集 「長福寺」の解説

長福寺

 下関市長府にある功山寺[こうさんじ]の昔の名前です。1327年に建てられました。1557年に毛利[もうり]氏に攻められた大内義長おおうちよしなが]が長福寺で自害しています。その後は、長府[ちょうふ]藩主の毛利秀元[もうりひでもと]が修理して、長府毛利[ちょうふもうり]氏の墓所になりました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

デジタル大辞泉プラス 「長福寺」の解説

長福寺〔大分県〕

大分県日田市にある真宗大谷派の寺院。1584年開山。1669年に建てられたとされる本堂は国の重要文化財に指定されている。

長福寺〔岡山県〕

岡山県美作市にある真言宗の寺院。1285年に建てられた三重塔は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「長福寺」の解説

長福寺

(長野県木曽郡木曽町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長福寺の言及

【英田[町]】より

…また北隣の美作町海田から本町の尾谷にかけての山麓一帯は県下有数の茶の産地である。福本には鑑真の開基と伝えられる長福寺があり,三重塔,木造十一面観音立像などは重要文化財に指定されている。国道374号線が通る。…

※「長福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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