東富田
ひがしとみだ
[現在地名]徳島市富田浜一―四丁目・仲之町一―四丁目・南仲之町一―四丁目・中央通一―四丁目・かちどき橋一―六丁目・明神町一―六丁目・富田橋一―六丁目・伊月町一―六丁目・秋田町一―六丁目・万代町一―五丁目・昭和町一―五丁目・二軒屋町一―二丁目・中昭和町一―四丁目・南昭和町一―四丁目
西富田の東に続く。徳島藩家中の増加に伴って、富田浦のうち、新町川下流部の富田川に面した浜側から順に南東に向けて城下の武家地に組込まれた地区。寛永八―一三年(一六三一―三六)の忠英様御代御山下画図では富田村と記された富田川南岸に竹か蘆様の生垣に囲われた五十数軒の屋敷が描かれているだけだが、正保三年(一六四六)の徳島城之図(国立公文書館蔵)では西富田の瑞巌寺前の山際より東へ六五五間の地点、のちの東御殿東端の南斎田浦境まで浜側筋を五丁、南筋の中ノ丁と裏中ノ丁筋各四丁、のちの御細工人丁筋一丁が士屋敷として区画され描かれている。天和三年(一六八三)の渭津城下之絵図に東富田とある。文化六年(一八〇九)の名東郡富田浦分間絵図(県立図書館蔵)には東富田・西富田・新町を合せた富田浦の外周は一里二五町五七間とする。同絵図によると士卒の屋敷化は富田浦の南寄り御座船川河畔に及び、田や葦原として残るのは堀南の東部と江古・浜中・射場ノ本・中洲・万代(現南昭和町一―二丁目付近)となっている。「阿波志」によれば東富田の範囲は南北約三二〇歩・東西五八二歩。寛政一二年(一八〇〇)には家中島々夜回り鉄砲の者の巡回範囲が、東富田分は西は広瀬権太夫屋敷角より、東は山下孫三郎・三沢新十郎屋敷より割屋敷まで、南は中山佐又屋敷より土橋甚右衛門屋敷までの丁々残らずと定められている(「夜廻御鉄炮之者島々御人配勤方之覚」元居書抜)。
延宝二年(一六七四)には中ノ丁にあった稲田氏下屋敷が御用により召上げられ、浜側に替地が与えられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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