日本歴史地名大系 「富隈城跡」の解説 富隈城跡とみのくまじようあと 鹿児島県:姶良郡隼人町住吉村富隈城跡[現在地名]隼人町住吉・真孝鹿児島湾奥部北側の天降(あもり)川河口の西側、隼人港に近い標高三二メートルを最高地点とする沖積地に築かれた館跡。富之隈とも記される。文禄四年(一五九五)豊臣秀吉より鹿児島内(うち)城から大隅へ移るよう命じられた島津義久(当時竜伯)は、七月二〇日内城を出ることを決意し(「島津竜伯書状」旧記雑録)、当初大口への移転を決め、豊臣方へ申入れたが住居等の施設が間にあわず、一一月一二日には大隅浜之市(はまのいち)の近くに屋敷を構え年内に移ることにした(「島津竜伯書状」同書)。島津義久譜(同書)は義久が一〇月京都から鹿児島に帰り、その後富隈に新しく「宅地」を占ってそこへ移ったとするので、浜之市近くの富隈を城地と決め、年内に当地に移ったとみられる。「三国名勝図会」はこの地には以前からあった城を修築して義久が移ったと記す。当時河口など交通上の要衝に城を築くことが多くみられたから、従来から当地に城があった可能性もあるが、形態も城主も不明で、その城が当城の原形になったとは思われない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by