小前田村(読み)おまえだむら

日本歴史地名大系 「小前田村」の解説

小前田村
おまえだむら

[現在地名]花園町小前田

御前田とも記す。現花園町南西部に位置する。明暦元年(一六五五)検地により小前田新田村を分村するが、境域は判然としない(「風土記稿」など)。両村を合せると、東は荒川あらかわ村、西は桜沢さくらざわ(現寄居町)、南は荒川を隔て男衾おぶすま小園こぞの(現同上)。村の中央を東西に秩父往還が通り、川越から上野高崎へ出る中山道の脇往還がこれと交差して北上する。中世の鎌倉街道上道は荒川沿いを西進し、村の西端字塚屋つかやから桜沢村との境を北上して児玉(現児玉町)方面へ向かう。猪俣党に属する藤田信国(摂津一ノ谷合戦で討死した行安の孫)は御前田三左衛門尉と称し(「岡部系図」大阪府岡部和子氏蔵)、当村を名字の地とした人物と推定される。永禄一〇年(一五六七)一一月一日の北条氏邦印判状(町田文書)によると、翌年から六年間の「御前田」の荒野開発を大森越前守・長谷部兵庫助に命じているが、「宿中之義、諸役不入」とあって、宿に対して保護策が講じられており、当地が宿として交通の要衝となっていたことも知られる。小田原北条氏の配下にあった長谷部兵庫助は当地を根拠地とした小前田衆の頭領で、元亀元年(一五七〇)当時の構成は兵庫助を含む馬上五騎と歩衆五人であった(同年一二月一一日「北条氏邦印判状」長谷部文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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