小布施村(読み)おぶせむら

日本歴史地名大系 「小布施村」の解説

小布施村
おぶせむら

[現在地名]小布施町小布施

東は松村新田まつむらしんでん六川ろくがわ村、北は北岡きたおか村、西は山王島さんのうじま村・飯田いいだ村、南は福原新田ふくはらしんでん村に囲まれてまつ川で限る。なお山王島村を挟んで千曲川左岸に飛地「吉島よしじま」がある。村名は古代の土豪布勢ふせい氏の居住説が有力である。

嘉暦四年(一三二九)の「諏訪上宮五月会(中略)御射山頭役結番之事」とある鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に、「御射山左頭、東条庄内本郷・(中略)、小布施・部木田へきだ・治・真野しんの矢島やしまつつみ郷地頭等」とあるのが初見。下諏訪春秋両宮御造宮帳の天正六年(一五七八)に「春宮一之大鳥居造宮 高梨内原郷、挑灯三ツ出シ堤・桜沢・中条・小布施半分・へくへ、右五郷より前々立之」とあり、「春宮一之大鳥居造宮原之郷」の件では、小布施半分等四ヵ郷の代官市川惣左衛門尉が、郷中より役銭が徴収できず難渋といってきて役銭を出さないため「立不申候」とある。同年上諏訪大宮同前宮造宮帳の「外垣廿間 東条庄」とある中に、「合三貫五百文 小布施郷」とあり、隣郷飯田郷の約半分を負担している。小布施郷は諏訪社上社、小布施半分は堤など四ヵ郷とともに下社奉仕で異なる。小布施郷は上社であるからその南半分にあたる。北半分は近世北岡村・押切おしきり村・羽場はば村などの村域であろう。天正一〇年上杉景勝が窪島日向守にあてた安堵状案にみえる四ヵ所中に、「小布施之内 堀江分」があるが位置不明。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「五百三石八斗四升 小布施村」とあり、元和四年(一六一八)幕府代官井上新左衛門が酒井忠勝に渡した信州川中島御知行目録に、「高五百拾三石四斗五升 小布施村」(付箋)弐拾目 うるし壱石四斗 籾山年貢小布施村」「高百拾七石七斗壱升弐合 同所新田」と分記された。元和五年松代酒井忠勝と高井野福島正則の相給となり、酒井領は以降松代領となった。小布施村御支配渡言伝ひ書控(小布施町史)に、「其節林組にて村役等致し居り候へ共、林組斗りにて知行割受候由、且は私領・御料之次第に有之候得、鬮取りにいたし候様子、(中略)居屋鋪ハ勿論、野田畑料領入まじりニ有之候也」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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