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酒井忠勝 さかいただかつ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

酒井忠勝
さかいただかつ

[生]天正15(1587).三河
[没]寛文2(1662).7.12. 江戸
江戸時代初期の大老。忠利の子。幼名は鍋之助,与七郎。入道して空印と号した。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦い徳川秀忠に従って出陣。同 14年讃岐守となり,同 19年下総国で 3000石を領し,元和8 (22) 年 7000石を加増されて深谷城主となった。

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デジタル大辞泉の解説

さかい‐ただかつ〔さかゐ‐〕【酒井忠勝】

[1587~1662]江戸前期の幕臣。老中・大老。若狭小浜城主。3代将軍家光の時、幕政の中心として活躍。家光の遺命により他の老中とともに4代家綱を補佐。

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朝日日本歴史人物事典の解説

酒井忠勝

没年:寛文2(1662)
生年:天正15(1587)
江戸前期の大老,川越藩(埼玉県)藩主のち小浜藩(福井県)藩主。通称は鍋之助,与七郎,官職名は讃岐守,のち空印と号す。父は忠利,母は鈴木重直の娘。関ケ原の戦に従軍。元和6(1620)年徳川家光に付属され,8年武蔵深谷(埼玉県)で1万石を領知し大名となる。寛永1(1624)年老職(のちの老中)に就任。3年武蔵忍(埼玉県)で5万石を領知し,4年父の遺領と合わせて武蔵川越で8万石を領知。11年若狭小浜へ移り11万3500石余りを領知し,小浜藩政の確立に努める。また門閥譜代出身の老中として家光の幕閣で重きをなし,15年大老に就任。家光死後遺命により幼主徳川家綱を補佐した。<参考文献>『小浜市史』

(しらが康義)

酒井忠勝

没年:正保4.10.17(1647.11.13)
生年:文禄3(1594)
江戸時代前期の出羽国庄内藩(山形県鶴岡市)藩主。下総国(千葉県)生まれ。通称は小五郎,宮内大輔に任ぜられる。父は左衛門尉家次。元和4(1618)年父の遺領越後国高田10万石を継ぎ,信濃国松代を経て,同8年出羽国庄内に移り14万石を領した。寛永9(1632)年加藤清正の子熊本藩主加藤忠広が改易の際,忠広を預かる。庄内転封の際は幕府より亀ケ崎(山形県酒田市)と鶴ケ岡(同鶴岡市)の2城を与えられたが,城下としては手狭な鶴ケ岡を居城と定め整備に努めた。一方,手討ち300人の記録を持つ武断派であったという。同名に大老になった讃岐守忠勝がいる。

(小柴良介)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

さかいただかつ【酒井忠勝】

近世初期の譜代大名(1587‐1662∥天正15‐寛文2)。老中,ついで大老となる。寛永~寛文期,第3代将軍徳川家光,第4代家綱の時代の幕閣構成員の指導的政治家の一人。重忠の弟忠利の子として三河国西尾に生まれた。母は鈴木重直の女。号空印。父とともに秀忠に仕え,1600年(慶長5)上田攻めに従う。09年従五位下讃岐守。14年11月下総国で3000石。20年(元和6)家光に付属され,22年7000石を加増されて武蔵国深谷城に住する。

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大辞林 第三版の解説

さかいただかつ【酒井忠勝】

1587~1662) 江戸前期の老中・大老。家光・家綱に仕え、幕藩体制の確立に貢献。川越城主。のち若狭小浜一二万石に転封。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

酒井忠勝
さかいただかつ
(1587―1662)

江戸前期の譜代(ふだい)大名。3代将軍徳川家光(いえみつ)、4代将軍家綱(いえつな)時代の老中。雅楽助(うたのすけ)酒井氏の分家備後守(びんごのかみ)忠利(ただとし)の長子として三河(みかわ)(愛知県)西尾に生まれる。1620年(元和6)2代将軍秀忠(ひでただ)の世子(せいし)家光に付けられ、22年加増されて武蔵(むさし)深谷(ふかや)(埼玉県)1万石の城主となる(のち5万石)。家光が将軍となった翌年、24年(寛永1)には老中に登用された。27年父の遺領を相続し、武蔵川越(かわごえ)城主となった(8万石、のち10万石)。34年若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)に転じ加増されて11万3000石余を領するに至った。官位も従(じゅ)四位上、少将に進む。家光時代後半から4代将軍家綱時代前半にかけて老中の中心としてよく将軍を補佐し、将軍政治の確立とその発展に努めた。藩政についてもよく心を用いている。性格は謹直で教養も豊かだった。晩年、空印(くういん)と号した。[林 亮勝]
『村上直著「酒井忠勝」(『大名列伝 6』所収・1967・人物往来社)』

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世界大百科事典内の酒井忠勝の言及

【小浜藩】より

…高次は,守護武田氏以来の後瀬山城を小浜(雲浜)に移し,小浜城下の町割りを行った。京極氏による若狭支配は2代で終わり,34年忠高は出雲松江に転封,そのあとへ老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越10万石から,京極氏の所領をそのまま受け継ぐかたちで入部した。翌々年,忠勝は在府料として下野国安蘇・都賀両郡内で1万石を加増されるが,この所領は忠直のとき,下野国安蘇郡と安房国平郡内に移された。…

【川越藩】より

…武蔵国(埼玉県)入間郡川越に藩庁を置いた譜代中藩。ただし後期の松平家は越前家分家の親藩。江戸に近い番城として老中などの重臣が配置された。1590年(天正18)酒井重忠が川越城1万石を領したのが藩の起りである。重忠は城下町の諸役を免除し商人の集住を図ったが,1601年(慶長6)上野国厩橋(まやばし)に移った。09年弟忠利が2万石で入封,検地を実施し,仙波喜多院を復興,三芳野天神社を建立した。忠利没後,嫡男の武蔵国深谷城主で老中忠勝が遺領を合わせ8万石で襲封した。…

【大老】より

…官位は四位少将ないし三位中将で老中よりも高く,老中と同道のときは1,2歩先を歩き,江戸城内では総下座の礼を受けた。 3代将軍家光のとき,1638年(寛永15),酒井忠勝土井利勝が任じられたのが最初とされるが,家康の将軍就任以前では,石川数正,酒井忠次,井伊直政など軍事的に有能な大身の武将が徳川家の宿老として内外から重視されていた。家康が将軍となりその政治的権威が高まると,本多正信・正純父子などの側近が武将派を押さえて家老と呼ばれるようになった。…

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