酒井忠勝(読み)サカイタダカツ

デジタル大辞泉 「酒井忠勝」の意味・読み・例文・類語

さかい‐ただかつ〔さかゐ‐〕【酒井忠勝】

[1587~1662]江戸前期の幕臣。老中大老。若狭小浜城主。3代将軍家光の時、幕政の中心として活躍。家光の遺命により他の老中とともに4代家綱を補佐。

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精選版 日本国語大辞典 「酒井忠勝」の意味・読み・例文・類語

さかい‐ただかつ【酒井忠勝】

  1. 江戸前期の若狭小浜藩主。讚岐守。号空印。母は徳川家康の妹。関ケ原戦いに参加。元和六年(一六二〇)から三代将軍家光に仕え、のち老中、大老。家光の死後、家綱を補佐した。天正一五~寛文二年(一五八七‐一六六二

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改訂新版 世界大百科事典 「酒井忠勝」の意味・わかりやすい解説

酒井忠勝 (さかいただかつ)

近世初期の譜代大名(1587-1662・天正15-寛文2)。老中,ついで大老となる。寛永~寛文期,第3代将軍徳川家光,第4代家綱の時代の幕閣構成員の指導的政治家の一人。重忠の弟忠利の子として三河西尾に生まれた。母は鈴木重直の女。号空印。父とともに秀忠に仕え,1600年(慶長5)上田攻めに従う。09年従五位下讃岐守。14年11月下総国で3000石。20年(元和6)家光に付属され,22年7000石を加増されて武蔵深谷城に住する。24年(寛永1)2万石加増,老中となる。27年父川越城主忠利の遺領を継ぎ,すべてで8万石を領し,川越城に移り住む。32年2万石加増,従四位下侍従に昇進。34年若狭国小浜に転封,11万3500石余を領する。36年1万石加増。38年土井利勝とともに老中の職を解かれ,朔望(1日と15日)にだけ登城し,〈大事〉なことだけ協議にあずかることになった。当時は大年寄などと呼ばれていたが,これが大老の起源である。51年(慶安4)家光の遺命で家綱の補佐役となる。56年(明暦2)職を辞したが,事にあたってはよく登城し,幕政に大きな影響力を行使した。

 なお,近世初期に同姓同名譜代大名(1594-1647・文禄3-正保4)がいる。家次の子。1609年(慶長14)従五位下宮内大輔に叙任。18年(元和4)遺領を継ぎ,翌年松代に転封。22年出羽国庄内に移され,鶴岡居城とした。32年加藤忠広を預けられ,14万石余に加封された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「酒井忠勝」の意味・わかりやすい解説

酒井忠勝
さかいただかつ
(1587―1662)

江戸前期の譜代(ふだい)大名。3代将軍徳川家光(いえみつ)、4代将軍家綱(いえつな)時代の老中。雅楽助(うたのすけ)酒井氏の分家備後守(びんごのかみ)忠利(ただとし)の長子として三河(みかわ)(愛知県)西尾に生まれる。1620年(元和6)2代将軍秀忠(ひでただ)の世子(せいし)家光に付けられ、22年加増されて武蔵(むさし)深谷(ふかや)(埼玉県)1万石の城主となる(のち5万石)。家光が将軍となった翌年、24年(寛永1)には老中に登用された。27年父の遺領を相続し、武蔵川越(かわごえ)城主となった(8万石、のち10万石)。34年若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)に転じ加増されて11万3000石余を領するに至った。官位も従(じゅ)四位上、少将に進む。家光時代後半から4代将軍家綱時代前半にかけて老中の中心としてよく将軍を補佐し、将軍政治の確立とその発展に努めた。藩政についてもよく心を用いている。性格は謹直で教養も豊かだった。晩年、空印(くういん)と号した。

[林 亮勝]

『村上直著「酒井忠勝」(『大名列伝 6』所収・1967・人物往来社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「酒井忠勝」の意味・わかりやすい解説

酒井忠勝
さかいただかつ

[生]天正15(1587).三河
[没]寛文2(1662).7.12. 江戸
江戸時代初期の大老。忠利の子。幼名は鍋之助,与七郎。入道して空印と号した。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに徳川秀忠に従って出陣。同 14年讃岐守となり,同 19年下総国で 3000石を領し,元和8 (22) 年 7000石を加増されて深谷城主となった。寛永1 (24) 年老中となり,2万石を加え,同3年武蔵国忍 (おし) 5万石に封じられた。翌4年同国川越で8万石,同9年 10万石を領し,従四位下侍従となり,同 11年には若狭国小浜 (おばま) 12万 3000石に封じられた。同 15年大老となり,翌年左少将に昇任,明暦2 (56) 年致仕した。『日本王代一覧』『日本帝王系図』などの編纂物がある。

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朝日日本歴史人物事典 「酒井忠勝」の解説

酒井忠勝

没年:寛文2(1662)
生年:天正15(1587)
江戸前期の大老,川越藩(埼玉県)藩主のち小浜藩(福井県)藩主。通称は鍋之助,与七郎,官職名は讃岐守,のち空印と号す。父は忠利,母は鈴木重直の娘。関ケ原の戦に従軍。元和6(1620)年徳川家光に付属され,8年武蔵深谷(埼玉県)で1万石を領知し大名となる。寛永1(1624)年老職(のちの老中)に就任。3年武蔵忍(埼玉県)で5万石を領知し,4年父の遺領と合わせて武蔵川越で8万石を領知。11年若狭小浜へ移り11万3500石余りを領知し,小浜藩政の確立に努める。また門閥譜代出身の老中として家光の幕閣で重きをなし,15年大老に就任。家光死後遺命により幼主徳川家綱を補佐した。<参考文献>『小浜市史』

(しらが康義)


酒井忠勝

没年:正保4.10.17(1647.11.13)
生年:文禄3(1594)
江戸時代前期の出羽国庄内藩(山形県鶴岡市)藩主。下総国(千葉県)生まれ。通称は小五郎,宮内大輔に任ぜられる。父は左衛門尉家次。元和4(1618)年父の遺領越後国高田10万石を継ぎ,信濃国松代を経て,同8年出羽国庄内に移り14万石を領した。寛永9(1632)年加藤清正の子熊本藩主加藤忠広が改易の際,忠広を預かる。庄内転封の際は幕府より亀ケ崎(山形県酒田市)と鶴ケ岡(同鶴岡市)の2城を与えられたが,城下としては手狭な鶴ケ岡を居城と定め整備に努めた。一方,手討ち300人の記録を持つ武断派であったという。同名に大老になった讃岐守忠勝がいる。

(小柴良介)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「酒井忠勝」の解説

酒井忠勝(1) さかい-ただかつ

1587-1662 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)15年6月16日生まれ。酒井忠利(ただとし)の長男。武蔵(むさし)深谷藩(埼玉県),同川越藩をへて,寛永11年若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩主酒井家初代となる。11万3500石。のち1万石加増。老中,大老として徳川家光,徳川家綱を補佐した。寛文2年7月12日死去。76歳。三河(愛知県)出身。法号は空印。

酒井忠勝(2) さかい-ただかつ

1594-1647 江戸時代前期の大名。
文禄(ぶんろく)3年2月生まれ。父酒井家次とともに大坂の陣で軍功をたてる。元和(げんな)4年父の跡をつぎ越後(えちご)(新潟県)高田藩主となる。5年信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩にうつり,8年出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)13万8000石の初代藩主となった。正保(しょうほ)4年10月17日死去。54歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「酒井忠勝」の解説

酒井忠勝
さかいただかつ

1587〜1662
江戸前期の老中・大老
関ケ原の戦いに従軍し,1609年讃岐守。3代将軍徳川家光に仕え,'24年老中,'38年大老となった。家光の死後も若い将軍家綱を補佐した。

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367日誕生日大事典 「酒井忠勝」の解説

酒井忠勝 (さかいただかつ)

生年月日:1587年6月16日
江戸時代前期の大名;大老
1662年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の酒井忠勝の言及

【小浜藩】より

…高次は,守護武田氏以来の後瀬山城を小浜(雲浜)に移し,小浜城下の町割りを行った。京極氏による若狭支配は2代で終わり,34年忠高は出雲松江に転封,そのあとへ老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越10万石から,京極氏の所領をそのまま受け継ぐかたちで入部した。翌々年,忠勝は在府料として下野国安蘇・都賀両郡内で1万石を加増されるが,この所領は忠直のとき,下野国安蘇郡と安房国平郡内に移された。…

【川越藩】より

…武蔵国(埼玉県)入間郡川越に藩庁を置いた譜代中藩。ただし後期の松平家は越前家分家の親藩。江戸に近い番城として老中などの重臣が配置された。1590年(天正18)酒井重忠が川越城1万石を領したのが藩の起りである。重忠は城下町の諸役を免除し商人の集住を図ったが,1601年(慶長6)上野国厩橋(まやばし)に移った。09年弟忠利が2万石で入封,検地を実施し,仙波喜多院を復興,三芳野天神社を建立した。忠利没後,嫡男の武蔵国深谷城主で老中忠勝が遺領を合わせ8万石で襲封した。…

【大老】より

…官位は四位少将ないし三位中将で老中よりも高く,老中と同道のときは1,2歩先を歩き,江戸城内では総下座の礼を受けた。 3代将軍家光のとき,1638年(寛永15),酒井忠勝土井利勝が任じられたのが最初とされるが,家康の将軍就任以前では,石川数正,酒井忠次,井伊直政など軍事的に有能な大身の武将が徳川家の宿老として内外から重視されていた。家康が将軍となりその政治的権威が高まると,本多正信・正純父子などの側近が武将派を押さえて家老と呼ばれるようになった。…

※「酒井忠勝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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