小津留村(読み)おづるむら

日本歴史地名大系 「小津留村」の解説

小津留村
おづるむら

[現在地名]直入町下田北しもたぎた 小津留・飛竜野ひりゆうの庄司しようじ芹川せりかわ

山浦やまうら村の東、小津留川下流域に位置。田北氏の祖親泰が嘉禎二年(一二三六)父大友親秀から所領を譲与され、翌三年安堵の将軍家下文に「小津留」がみえる(「大友田北氏系図」田北赳夫本)。江戸時代には幕府領直入郡一二ヵ村の一で、領主変遷井手野いでの村と同じ。正保郷帳に下田北村のうちとして村名がみえ、田高二二五石余・畑高一八三石余、旱損がち。この高は山浦村分を含むと推定される。享保一〇年(一七二五)の村明細帳(田北フサ子文書)によれば高一九七石余、反別二〇町八反余、家数三八(うち水呑一)・人数三一五、牛一〇・馬七、郷蔵一。


小津留村
おづるむら

[現在地名]大分市下戸次しもへつぎ 尾津留おづる

大野川右岸の尾津留台地にあり、南西楠木生くすぎゆう村。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高三七五石余、利光村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高二七六石余・出来高九八石余、田高四九石余・畑高三二六石余。正保郷帳では楠木生村を含んで高七六一石余、うち田高四九石余・畑高七一一石余、戸次庄に所属。


小津留村
こづるむら

[現在地名]三重町小田おだ 小津留

田町たまち村の東、本城ほんじよう山南西麓にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には小津留村と田町村を合せた一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳では高一五五石余、上ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一〇五石余・出来高五一石余、田方一〇〇石余・畑方五五石余、柴山などありと注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android