小石川金杉水道町
こいしかわかなすぎすいどうちよう
[現在地名]文京区春日一―二丁目・小石川二丁目・同四丁目・小日向一丁目
金杉村の百姓地に成立した町屋。明暦二年(一六五六)に百姓町屋を許され、元禄四年(一六九一)以降は町奉行・代官両支配に転じた。町名はまだ金杉村を称していた承応二年(一六五三)に神田上水の定浚役を課せられたことに由来(御府内備考)。町場は最南部の坂通町、坂通町北東方の肴店町、肴店町北西方の表町、表町西方の稲荷前町と大きく四ヵ所に分れ、安永三年小間附町鑑によると、小間数は合せて四二八間余、うち田舎間四二六間余は年貢地、京間二間は公役金を負担。
坂通町は伝通院前から上水端方面に南に下り、東に折れて金杉天満宮(現北野神社)に突当る安藤坂の通りに面する。片側・両側入交じりの町で、南北間口は延べ九五間余・東西幅二五間(ただし道幅四間は除く)。間口三間半・奥行九尺の自身番屋一がある。東と南は小石川龍門寺門前や武家地など、西は賄方組屋敷や紀州藩付家老安藤氏上屋敷、北は西側が同組屋敷、東側は小石川伝通院前白壁町であった。町内のうち一三坪は享保年中(一七一六―三六)に本丸賄方村山五右衛門の拝領町屋敷となり(化政期には賄方陸尺兵左衛門が拝領)、公役(半人役)を勤めている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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