神田上水(読み)かんだじょうすい

精選版 日本国語大辞典 「神田上水」の意味・読み・例文・類語

かんだ‐じょうすい ‥ジャウスイ【神田上水】

江戸の三大上水の一つ。徳川家康の命により、慶長年間(一五九六‐一六一五)に完成井の頭池を源とし、小石川関口を経て万年樋(とい)神田川を渡り、神田日本橋京橋飲料水を給した。明治三三年(一九〇〇廃止。関口より上流部は、現在、神田川の一部。小石川上水。
※財政経済史料‐四・土水・治水・上水由来・承応二年(1653)四月井の頭池水を引は神田上水なり」

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デジタル大辞泉 「神田上水」の意味・読み・例文・類語

かんだ‐じょうすい〔‐ジヤウスイ〕【神田上水】

江戸初期、江戸に設けられた日本最古の上水道。水源は現武蔵野市井の頭公園内のかしら池で、神田日本橋京橋などに給水した。明治36年(1903)廃止。現在は神田川の一部。

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改訂新版 世界大百科事典 「神田上水」の意味・わかりやすい解説

神田上水 (かんだじょうすい)

江戸の上水道井の頭上水ともいった。玉川上水とともに江戸の二大水道として,江戸の武家・寺社・町方の生活を支えるのに大きな役割を果たした。水源は武蔵野の井の頭池で,途中善福寺池から流れ出る善福寺川,妙正寺池から流れ出る妙正寺川の2流を合わせ,淀橋で玉川上水の助水を入れた。井の頭池から江戸に入る目白下大洗堰まで5里足らず,さらに関口水道町,小日向水道町,金杉水道町の3町を通り水道橋に至る。ここまでが開渠で水元と呼ばれる。ここから掛樋で神田川を渡し江戸城郭内に入る。これ以遠は江戸内と呼ばれ,暗渠で郭内から江戸の町々,寺社に配水された。開設は徳川家康の命を受けた大久保藤五郎忠行が,家康の関東入国に先立ち開いたとも,内田六次郎が慶長ころに開いたとも伝えられている。大久保藤五郎は神田上水開設後主水(もんと)の名を与えられ江戸城御用の菓子司となり,水道経営にはたずさわらなかった。これに対し内田六次郎は水元役となり,以後代々神田上水の経営に当たった。内田家は1770年(明和7)茂十郎の代に水元役の退役を命じられ,神田上水は幕府が直接経営することになった。水道料は水銀(みずぎん)と呼ばれ,武家方からは石高割で,町方からは間口割で徴収した。内田茂十郎は,1732年(享保17)から同家が水銀を徴収するようになったと称しているが,茂十郎が水元役を退役してからは江戸城御金蔵納めになった。神田上水の保全のために目白下大洗堰までは沿岸の村々が持場をきめて上水縁の草を刈り,上水を汚さぬように監視に当たった。大洗堰から下流の開渠部分については関口・小日向・金杉の水道3町が保全の仕事に当たり,上水浚(さら)いを負担した。この上水浚いは後に請負人の請負いでなされるようになった。このほか大洗堰,牛天神下,小日向大日坂下,水道橋外掛樋際に番屋が置かれ,水番人・見守が上水保全を担当した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神田上水」の意味・わかりやすい解説

神田上水
かんだじょうすい

江戸・東京の上水道。井の頭上水(いのかしらじょうすい)ともいう。開設後、1900年(明治33)まで上水道として使われ、玉川上水(たまがわじょうすい)と並び江戸・東京の二大水道といわれた。その地の人々の都市生活を支えるのに大きな役割を果たしてきた。水源は武蔵野(むさしの)の井の頭池(東京都三鷹(みたか)市)で、途中善福寺(ぜんぷくじ)池から流れ出る善福寺川、妙正寺(みょうしょうじ)池から流れ出る妙正寺川の2流をあわせ、淀橋(よどばし)で玉川上水の助水を入れた。開設は徳川家康の命を受けた大久保藤五郎が1590年(天正18)に家康の関東入国に先だって開いたとも、また内田六次郎が慶長(けいちょう)(1596~1615)ころに開いたとも伝えられている。大久保藤五郎は上水開設後、主水の名を与えられ、江戸城御用の菓子司となったが、内田六次郎は神田上水水元役となり、この上水の経営にあたった。以後内田家は、神田上水水元役を受け継いだが、1770年(明和7)茂十郎の代に退役を命じられ、幕府が直接経営することになった。神田上水は井の頭池より目白(めじろ)下大洗堰(ぜき)まで5里(19.6キロメートル)足らず、さらに水道橋まで開渠(かいきょ)であるが、神田川を掛樋(かけひ)で渡した以遠の江戸城郭内や武家方・町方への配水は暗渠(あんきょ)になっている。水道料は水銀(みずぎん)とよばれ、武家方からは石高割(こくだかわり)で、町方からは屋敷間口(まぐち)割で徴収した。水元役内田家は、1732年(享保17)から同家で水銀を徴収していたと称しているが、同家の水元役退役後は江戸城御金蔵(おかねぐら)納めになった。明治維新以後は東京府、民部省、工部省、大蔵省と、その所管をかえたが、さらにふたたび東京府を経て東京市へ移った。近代水道の創設に伴って1901年(明治34)廃止。

[伊藤好一]

『堀越正雄著『日本の上水』(1970・新人物往来社)』


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百科事典マイペディア 「神田上水」の意味・わかりやすい解説

神田上水【かんだじょうすい】

江戸開府(1590年)に際し徳川家康の命により大久保忠行が開設したとも,慶長年中(1596年―1615年)ころに内田六次郎(のちに水元役)が開いたとも伝える日本最初の上水道。井の頭池を水源とし,井の頭上水ともいう。目白台,小日向台のすそを経て,現在の水道橋付近(ここまでは開渠)で神田川を大樋(とい)で渡り,江戸城郭内に入り,以降暗渠で神田,日本橋,京橋方面に給水した。水道料は水銀と称し,武家方からは石高割,町方からは間口割で徴集した。→玉川上水
→関連項目井の頭公園神田川上水道

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「神田上水」の解説

神田上水
かんだじょうすい

近世初期に開削された江戸の上水道。井之頭(いのかしら)池を水源に,善福寺川・妙正寺川などをあわせて東流し,駿河台・小川町一帯に開渠(かいきょ)で給水,さらに神田川を万年樋で渡し,暗渠(あんきょ)で郭内や江戸城東部に給水した。1590年(天正18)大久保藤五郎忠行が徳川家康の関東入国に先立ち開いたとされるが,慶長年間説,寛永年間説,1653年(承応2)説などもあり確定していない。開削した人物も大久保以外に,武蔵国の百姓内田六次郎があげられている。内田家は代々水元役として神田上水の経営にあたり,1732年(享保17)から同家が水銀という水道料を徴収したが,70年(明和7)退役,神田上水は幕府の直轄となった。1900年(明治33)水道敷設とともに廃止。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神田上水」の意味・わかりやすい解説

神田上水
かんだじょうすい

徳川家康が江戸開府時飲用水を引くため開削した上水道。日本最古の上水で,天正 18 (1590) 年大久保忠行によって開設された。井の頭池,善福寺池,妙正寺池の湧水を水源とする神田川水系の水を大洗堰 (文京区関口) によりせき止め,素掘りで小石川後楽園を経てお茶の水堀の上を木樋で渡し,神田,日本橋方面へ供給。承応3 (1654) 年に玉川上水が完成するまで江戸の水道の主役であった。 1898年淀橋浄水場開設に伴い,1901年一般への給水を停止した。

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世界大百科事典(旧版)内の神田上水の言及

【神田川】より

…近世には水質も良く,水量も確保できたから,現在の文京区関口1丁目あたりで取水のうえ,文京区・千代田区の一部へ配水されていた。そのため神田川は長い間,取水地点より上流部を神田上水,JR飯田橋駅付近までを江戸川,下流部を神田川として区別していた。下流部のうちJR御茶ノ水駅付近に見られる切割の河道は,江戸幕府の手による人工河川である。…

※「神田上水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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