小見川村(読み)おみがわむら

日本歴史地名大系 「小見川村」の解説

小見川村
おみがわむら

[現在地名]小見川町小見川

現小見川町の北部中央に位置し、北方に利根川の遊水池八丁面はつちようめんが広がり、黒部くろべ川が注ぐ。「利根川図志」では銚子口から当村や息栖いきす(現茨城県神栖町)まで潮水がさかのぼると記される。東は阿玉川あたまがわ村、南は羽根川はねがわ村、西は野田のだ村。銚子道が通り、黒部川河口部には河岸が置かれ、町並が形成された。「和名抄」に記載される海上うなかみ麻続おみ郷の遺称地とされる。

〔中世〕

応安七年(一三七四)の海夫注文(香取文書)に「おみかわの津」とみえ、「粟原彦二(郎カ)」の知行分であった。延徳四年(一四九二)には木内きのうち庄小見河の種徳しゆとく寺の祥訓と住人外畠妙珊が田地を常陸根本こんぽん(現茨城県鹿島町)に寄進している(七月二五日「種徳寺住持伊叟祥訓并外畠妙珊寄進状」根本寺文書)。永正三年(一五〇六)常陸国万福まんぷく(現茨城県玉造町)本尊が盗難にあい、小見川善応寺に隠し置かれていたという(永正七年二月「万福寺阿弥陀三尊由緒書」常陸遺文)。永禄九年(一五六六)野中長禅のなかちようぜん(現旭市)の再建にあたり、小見河から柱などの用材を運搬している(長禅寺蔵愛染明王像胎内銘)。同一三年に徳星とくしよう(現山田町)で行われた伝法灌頂会には小見河の円福えんぷく(現三ノ分目)や蓮花房らが参加している(一一月一四日「伝法灌頂請定」徳星寺文書)

戦国期には千葉氏庶流の粟飯原氏が地内の城山じようやまを拠点とし、小見川殿とよばれていたとされ(「小見川領内諸事覚書」木内神社文書)、弘治三年(一五五七)頃は粟飯原胤次が居住したが、千葉胤富が家督相続し、佐倉(現酒々井町)に移るに伴い、胤次は森山もりやまに移り、当地は胤次の継嗣光胤が住したという(千葉大系図)。千葉胤富の勢力下であったことは、年未詳ながら舟運および軍備指図をしていることからも知られる(一二月二三日「千葉胤富条書」・八月二八日「千葉胤富書状」原文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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