現酒々井町
孝胤の子の勝胤は菩提寺の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北部の市。1953年佐倉・臼井両町と,志津,根郷,弥富,和田の4村が合体,市制。人口17万2183(2010)。市域は印旛沼の南岸,鹿島川の低湿地と両総台地にまたがる。江戸時代は江戸城の東を守る要所として重視され,1610年(慶長15)入封した土井利勝が鹿島台に佐倉城を築城,城下町を建設した。その後領主はめまぐるしく代わったが,1746年(延享3)老中堀田正亮が10万石(のち11万石)で入封,以後廃藩まで堀田氏の支配が続く。佐倉藩では学問が盛んで,藩校成徳書院(温故堂の後身)では儒学,兵学,医学,蘭学が教授され,1843年(天保14)には日本最初の私立蘭方医院とされる佐倉順天堂が開設された。明治に入って城跡に第57連隊が置かれ軍都となった。第2次世界大戦後は地方商業の中心にすぎなかったが,近年はJR総武本線の佐倉駅,京成電鉄の志津・臼井両駅を中心に東京通勤者の住宅団地が造成され,また臼井,根郷などに工業団地もできて人口が激増している。東関東自動車道のインターチェンジがある。農家人口は大幅に減少しているが,米作,ラッカセイや野菜の栽培,酪農が中心で,商圏は印旛大橋の架設によって印旛沼北岸に拡大している。1983年佐倉城跡に国立歴史民俗博物館が開設された。
執筆者:菊地 利夫
鎌倉以来の名族千葉氏は,文明年間(1469-87)に本拠を佐倉に移し,城下町を整備したといわれる。ここは現在本佐倉城と呼ばれる地(大部分は酒々井(しすい)町内)で,千葉介孝胤以後,滅亡まで8代がここを本城とした。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めに,千葉介重胤は後北条氏配下として小田原城に籠城し,敗れて千葉氏は滅亡,佐倉城も落城した。1610年小見川より土井利勝が3万2400石で入封した。利勝は幕命により本佐倉城より西に約5km離れた鹿島川を見下ろす台地の上に築城し,これを佐倉城とした。城は11年に着工し,15年(元和1)ころ完成したといわれる。
城下町は城の東に続く台地上に形成され,町屋は大手門先の札の辻から台地上を東に延びる街道の両側に置かれ,佐倉新町と呼ばれた。武家屋敷は城内および大手門から札の辻に至る宮小路の両側から佐倉新町の両裏側へ延びていた。町奉行の支配地は佐倉六町といい,新町と田町,弥勒町,本町,本佐倉町,酒々井町であったが,田町は城の北方の堀端を通って台地に上る街道沿いで,これに次いで新町,弥勒町,本町と続き,本佐倉町,酒々井町は東方に離れていた。この町の中を貫通する街道が江戸千住から出る佐倉道で,その延長は成田に至り,近世中期以後は成田山への参詣路としてにぎわい,宿場町的な性格もあった。城下町の商業は藩士や近在の日用生活物資を商うものが主で,江戸が近く往来が盛んであったため,高級品は皆江戸で調達されたので,大きな商人は育たなかったという。
執筆者:川名 登
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
千葉県北部、下総(しもうさ)台地北部と印旛(いんば)沼の低地に広がる市。1954年(昭和29)佐倉町と臼井(うすい)町、志津(しづ)村、根郷(ねごう)村、和田村、弥富(やとみ)村が合併して市制施行。地名の佐は狭い土地を意味し、下総台地の小谷が入り込んだようすを示している。JR総武本線が通じ、成田線を分岐する。北部に京成電鉄本線が走るとともに、国道51号、296号や東関東自動車道(佐倉インターチェンジ)が通じているが、JR線と京成電鉄線は中央の台地上の市街地を挟んで低地に形成されたために、鉄道利用者は不便を余儀なくされる。
鎌倉時代、千葉氏の一族臼井氏が印旛沼を見下ろす高台に城を構えて一帯を支配したが、その衰退後は馬加(まくわり)氏が現在の酒々井(しすい)町本佐倉の将門(まさかど)山に居城した。江戸時代には幕府の江戸防衛の拠点とされ、1610年(慶長15)土井利勝(としかつ)によって佐倉城が築かれた。その後多くの大名の転封が続いたが、1746年(延享3)の堀田正亮(ほったまさすけ)入封後は幕末まで堀田氏11万石の房総(ぼうそう)最大の城下町として、また佐倉街道の宿場町としても栄えた。幕末には蘭学者(らんがくしゃ)佐藤泰然(たいぜん)が順天堂と称する塾を開いて西洋医学による教育と医療を行い全国に知られた。明治以後は城跡に陸軍の兵営が置かれ、明治末には歩兵五七連隊となったが、1983年(昭和58)その地に明治百年記念事業の一環として、歴史・考古・民俗資料を展示し、調査研究を進める国立歴史民俗博物館が開館した。佐倉城は自然の地形を利用して鹿島(かしま)川に面する台地上に築かれ、城下町はその東方の街道筋に沿って細長い街村形態をとったので、市街地の拡大が制約され、中心地の商業機能も低い。印旛沼の干拓地が広く、米作のほか近年は野菜生産が伸びている。かつては佐倉炭の集散地をなし、今日では佐倉味噌(みそ)の産地として知られるが、郊外に根郷内陸工業団地も形成され近代工業が発展している。臼井付近では住宅地開発が進み、団地内交通としては新交通システム(ユーカリが丘線)が通じている。印旛沼を望む台地には農業体験や生き物とのふれあいのできる「佐倉草ぶえの丘」があり、近くに野鳥の森や釣り場、ゴルフ場、さらに堀田正倫の別邸庭園「さくら庭園」や武家屋敷跡などもある。城下鎮護の麻賀多(まかた)神社には県指定有形文化財の紫裾濃胴丸(むらさきすそごどうまる)の甲冑(かっちゅう)や江戸時代作の神輿(みこし)があり、秋の祭礼には山車(だし)が出、佐倉囃子(ばやし)が演じられる。市域には西洋文化との接触を示す天球儀、蘭日辞典『ハルマ和解(わげ)』をはじめとする鹿山(ろくざん)文庫関係資料など県指定有形文化財が残っている。面積103.69平方キロメートル、人口16万8743(2020)。
[山村順次]
『『佐倉市史』全3巻(1971~1979・佐倉市)』▽『篠丸頼彦著『佐倉の歴史』(1981・東洋書院)』
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