佐倉(読み)さくら

精選版 日本国語大辞典 「佐倉」の意味・読み・例文・類語

さくら【佐倉】

[1] 千葉県北部の地名。印旛沼(いんばぬま)に面する。堀田氏十一万石の旧城下町工業団地の造成が進み、住宅都市として発展。JR総武本線、京成電鉄本線が通じる。国立歴史民俗博物館がある。昭和二九年(一九五四)市制。
[2] 〘名〙 「さくらずみ(佐倉炭)」の略。
※竹の木戸(1908)〈国木田独歩〉上「一俵八十五銭の佐倉(サクラ)が彼(あれ)だよ」

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デジタル大辞泉 「佐倉」の意味・読み・例文・類語

さくら【佐倉】

千葉県北部の市。近世、堀田氏の城下町。現在は宅地化が進む。人口17.2万(2010)。

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日本歴史地名大系 「佐倉」の解説

佐倉
さくら

酒々井本佐倉もとさくら上本佐倉かみもとさくら、佐倉市大佐倉おおざくら一帯に比定され、戦国時代の千葉氏の居城として知られる本佐倉城(中世の佐倉城)跡がある。印東いんとう庄のうち。現在の佐倉市城内じようない町にある佐倉城を中心とする地域が佐倉とよばれるようになったのは慶長一五年(一六一〇)以降であり、それ以前にみえる佐倉は現在の本佐倉周辺をさし本佐倉城とその城下にあたる。中世史料には作倉とみえることも多い。「本土寺過去帳」に、応永二八年(一四二一)五月二三日「サクラ」で没した東孫三郎母妙伝の記事がみえる。享徳の乱において、千葉氏庶家の馬加氏・原氏が千葉宗家・円城寺氏を滅ぼすと馬加氏が千葉宗家となった。この馬加系千葉氏を継いだのが、馬場氏の一族で印東庄石橋いわはし郷を領して岩橋殿とよばれた輔胤である。輔胤もしくは子の孝胤の頃に千葉氏は居城を佐倉に移した。「千学集抜粋」によると、文明一六年(一四八四)六月三日のこととされる。同書には延徳二年(一四九〇)六月八日に市が、同年八月一二日に町が立てられたとみえ、城下集落が形成され始めたと考えられる。

孝胤の子の勝胤は菩提寺勝胤しよういん(曹洞宗、現佐倉市)海隣かいりん(時宗、現同上)や、祈願所の妙胤みよういん(日蓮宗)を建立するなど、一六世紀前半には城下の整備が進んだ。千葉氏の一族家臣の間では歌壇が形成され、城下に隠棲した衲叟馴窓によって永正一一年(一五一四)に「雲玉和歌集」が編纂された。なお当地には長勝ちようしよう寺・善立ぜんりゆう(善龍)(ともに日蓮宗、現廃寺)宝珠ほうじゆ(真言宗、現佐倉市)文殊もんじゆ(真言宗、現廃寺)、八幡神社(現佐倉市)・妙見社(現酒々井町・佐倉市)五良ごりよう神社(現佐倉市)などの寺社もあった(「長勝寺鍔口」東京国立博物館蔵、「本土寺過去帳」、宝珠院文書、「佐倉風土記」「千学集抜粋」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「佐倉」の意味・わかりやすい解説

佐倉[市] (さくら)

千葉県北部の市。1953年佐倉・臼井両町と,志津,根郷,弥富,和田の4村が合体,市制。人口17万2183(2010)。市域は印旛沼の南岸,鹿島川の低湿地と両総台地にまたがる。江戸時代は江戸城の東を守る要所として重視され,1610年(慶長15)入封した土井利勝鹿島台に佐倉城を築城,城下町を建設した。その後領主はめまぐるしく代わったが,1746年(延享3)老中堀田正亮が10万石(のち11万石)で入封,以後廃藩まで堀田氏の支配が続く。佐倉藩では学問が盛んで,藩校成徳書院(温故堂の後身)では儒学,兵学,医学,蘭学が教授され,1843年(天保14)には日本最初の私立蘭方医院とされる佐倉順天堂が開設された。明治に入って城跡に第57連隊が置かれ軍都となった。第2次世界大戦後は地方商業の中心にすぎなかったが,近年はJR総武本線の佐倉駅,京成電鉄の志津・臼井両駅を中心に東京通勤者の住宅団地が造成され,また臼井,根郷などに工業団地もできて人口が激増している。東関東自動車道のインターチェンジがある。農家人口は大幅に減少しているが,米作,ラッカセイや野菜の栽培,酪農が中心で,商圏は印旛大橋の架設によって印旛沼北岸に拡大している。1983年佐倉城跡に国立歴史民俗博物館が開設された。
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鎌倉以来の名族千葉氏は,文明年間(1469-87)に本拠を佐倉に移し,城下町を整備したといわれる。ここは現在本佐倉城と呼ばれる地(大部分は酒々井(しすい)町内)で,千葉介孝胤以後,滅亡まで8代がここを本城とした。1590年(天正18)豊臣秀吉小田原攻めに,千葉介重胤は後北条氏配下として小田原城に籠城し,敗れて千葉氏は滅亡,佐倉城も落城した。1610年小見川より土井利勝が3万2400石で入封した。利勝は幕命により本佐倉城より西に約5km離れた鹿島川を見下ろす台地の上に築城し,これを佐倉城とした。城は11年に着工し,15年(元和1)ころ完成したといわれる。

 城下町は城の東に続く台地上に形成され,町屋は大手門先の札の辻から台地上を東に延びる街道の両側に置かれ,佐倉新町と呼ばれた。武家屋敷は城内および大手門から札の辻に至る宮小路の両側から佐倉新町の両裏側へ延びていた。町奉行の支配地は佐倉六町といい,新町と田町,弥勒町,本町,本佐倉町,酒々井町であったが,田町は城の北方の堀端を通って台地に上る街道沿いで,これに次いで新町,弥勒町,本町と続き,本佐倉町,酒々井町は東方に離れていた。この町の中を貫通する街道が江戸千住から出る佐倉道で,その延長は成田に至り,近世中期以後は成田山への参詣路としてにぎわい,宿場町的な性格もあった。城下町の商業は藩士や近在の日用生活物資を商うものが主で,江戸が近く往来が盛んであったため,高級品は皆江戸で調達されたので,大きな商人は育たなかったという。
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