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松平家忠 まつだいらいえただ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松平家忠
まつだいらいえただ

[生]弘治1(1555).三河
[没]慶長5(1600).7.30. 伏見
戦国時代の武将。伊忠の長子,母は鵜殿三郎長持の娘。徳川家康に従って転戦,戦功により,家康関東入国後,武蔵忍 (おし) 城主 (1万石) 。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに先立ち,前年より守備していた伏見城を豊臣勢に包囲され,討死。

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百科事典マイペディアの解説

松平家忠【まつだいらいえただ】

徳川家康の家臣。三河(みかわ)深溝(ふこうず)(現愛知県幸田町)を本拠とする深溝松平氏。武蔵忍(むさしおし),下総上代(しもうさかじろ)・小見川などに封じられた。

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朝日日本歴史人物事典の解説

松平家忠

没年:天正10.7.29(1582.8.17)
生年:弘治1(1555)
安土桃山時代の武将。深溝松平伊忠の子。母は水野忠政の娘。又八郎,主殿助を称した。徳川家康に仕え,「東三河の旗頭」酒井忠次の組下として活躍し,天正3(1575)年,牧野康成と共に武田方から奪った牧野城(諏訪原城)を防衛して武名をあげている。のち甲州平定,小牧・長久手の戦などに戦功をあげ,高天神城攻めのときの砦や浜松城の築城などに携わり,普請の巧者としても知られている。天正18年の家康の関東移封にともない,武蔵忍城主1万石となり,文禄1(1592)年には下総上代,さらに同3年には下総小見川に移封された。慶長4(1599)年から鳥居元忠,内藤家長らと伏見城番を命ぜられ,翌5年,家康が会津攻めに向かったときも残り,石田三成ら西軍の攻撃にさらされることになったが,7月18日からの猛攻にもかかわらず籠城を続け,ついに諸将と共に自刃して果てた。天正5年10月から文禄3年10月まで,18年間の『家忠日記』を残したが,この期の家康の行動,家康と信長・秀吉の関係をうかがえる記事が含まれている。

(小和田哲男)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まつだいらいえただ【松平家忠】

1555‐1600(弘治1‐慶長5)
徳川家康の部将。通称は又八郎,主殿助。深溝(ふこうず)松平氏の嫡男で,三河国深溝に生まれる。1575年(天正3)長篠の戦に父と参陣して以来,諸合戦に軍功をあげた。90年関東入部のとき,武蔵国忍(おし)1万石を与えられ,のち下総国上代(かじろ)に転じ,さらに同国小見川に入封した。関ヶ原の戦のはじめ伏見城西丸の守将として戦死。《家忠日記》を残した。【煎本 増夫】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松平家忠
まつだいらいえただ
(1547―1582)

安土桃山時代の武将で、徳川家康の家臣。父は三河国深溝(ふこうず)松平氏の伊忠(これただ)、母は鵜殿長持(うどのながもち)の娘。1575年(天正3)の長篠(ながしの)合戦のおりに父が戦死して家督を継ぐ。遠江国(とおとうみのくに)高天神城(たかてんじんじょう)をめぐる武田勝頼との攻防では、しばしば牧野原城(まきのはらじょう)に在番した。その後も、1582年の甲斐武田氏攻め、1584年の小牧・長久手の戦い、1590年の小田原北条氏攻めなどに従軍する。同年家康の関東転封(てんぽう)により、武蔵国忍城(おしじょう)1万石に封ぜられ、下総国(しもうさのくに)上代城(かじろじょう)、同小見川城(おみがわじょう)と変わった。1599年(慶長4)に伏見城の守備を命ぜられ、翌年7月、関ヶ原の合戦の前哨戦で西軍の攻撃を受けて戦死した。堀や石垣普請など土木技術に優れ、1577年(天正5)10月から1594年(文禄3)12月までが残されている『家忠日記』は、この時代の基本史料である。[本多成]
『竹内理三編『増補 続史料大成 第19巻』(1979・臨川書店) ▽盛本昌広著『松平家忠日記』(1999・角川書店) ▽大嶌聖子著「『家忠日記』の末尾記事」(『ぶい&ぶい16』所収)』

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世界大百科事典内の松平家忠の言及

【家忠日記】より

…徳川家康の臣松平家忠が身辺におこった日常的なできごとを簡潔に記した日記で,1577‐94年(天正5‐文禄3)に及ぶ。5ヵ国領有時代,関東入部後の徳川氏の発展,家康と信長,秀吉に関することなど重要な記事が多い。…

【忍藩】より

…戦国末期,成田長泰・氏長の居城であったが1590年(天正18)豊臣秀吉の関東攻略により落城。同年8月徳川家康は深溝(ふこうず)松平家忠を利根川沿岸諸村1万石の地に配置した。家忠は伊奈熊蔵らの検地をうけた後,領地の経営にあたったが92年(文禄1)下総国上代(かじろ)に転じ,同年東条松平忠吉が10万石で入封し,成田氏旧臣などを加え家臣団を強化した。…

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