小郡町
おごおりまち
[現在地名]小郡市小郡・祇園一―二丁目
宝満川中流域、現小郡市の中央部に位置し、東は大板井村に接する。「日本書紀」持統天皇三年(六八九)六月二四日条に「筑紫小郡」で新羅の弔使を接待したとあるが、小郡の地名はこの外交使節を迎接する施設に由来するという説がある。または大宝令で郡の規模で五等級に分けた際、当地を含む御原郡が小郡になったことによるともいう(小郡町誌資料)。南東部の向築地から八反田にわたって小郡官衙遺跡が発見された。当地域は延文四年(一三五九)八月六日の大保原合戦の行われた一角で、「柏葉抄録」に「小郡原」より打続いて大保村ありとある。「筑後将士軍談」には「小郡村大野原古塚」とあるほか、前伏・大将塚などの遺跡が記される。前伏は合戦の際に少弐頼尚軍の前衛兵が配された地と伝える(筑後河北誌)。
久留米藩領古図では小郡村とみえるが、元禄国絵図では小郡町とする。本高は四七二石余(同絵図)。「在方諸覚書」では古高五二〇石・役高六三四石。
小郡町
おごおりちよう
面積:三三・二〇平方キロ
椹野川が山口湾に流入する辺りの河口平野に立地し、東北に榾木山、東南に伽藍山、西に禅定寺山をめぐらす。北は二本木峠によって美禰祢美東町に境し、東北および東南は山口市に、西は宇部市および山口市嘉川に接し、南北に長い。
小郡の名がみえるのは、建久九年(一一九八)に白松藤二資綱を小郡ならびに賀河郷地頭職に補したことを記した天福元年(一二三三)の関東下知状(東大寺要録)が初見で、町域はほぼ東大寺領椹野庄の荘域に含まれると想定される。
山陽道の宿駅津市を中心に発達した町で、山陽道から椹野川沿いに山口に入る分岐点でもあった。
明治三三年(一九〇〇)山陽鉄道三田尻(現防府市)―厚狭(現厚狭郡山陽町)間が開通、小郡駅が誕生した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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