小金井村(読み)こがねいむら

日本歴史地名大系 「小金井村」の解説

小金井村
こがねいむら

[現在地名]国分寺町小金井

南流する姿すがた川東岸台地上にある。東はしば村、西は姿川を隔て蓑輪みのわ村・川中子かわなご村、南は新田しんでん宿(現小山市)、北は笹原ささはら新田。日光街道が南北に貫通して小金井宿を形成、小金井町とも称される。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に「下野小金井」とみえ、当村の慈眼じげん寺が加判している。慶安郷帳では田二一三石余・畑五四二石余。壬生藩領。元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となり、天明七年(一七八七)上知され、寛政一〇年(一七九八)佐倉藩領に復した(紀氏雑録続集)

宿村大概帳によれば、新田宿までは二九町、石橋いしばし宿までは一里半で、宿内の長さは南北六町四二間。地子免許はなく、笹原新田が加宿を勤める。加宿を含めた天保一四年(一八四三)の宿内の人数は男三七四・女三九三、家数一六五。なか町に本陣脇本陣がそれぞれ一軒あり、旅籠屋は四三軒(大五・中一三・小二五)。宿建人足は二五人で、馬二五疋。人馬継問屋は中町にあり、問屋四人・年寄五人・帳付二人・馬指二人・人足指二人が詰めた。高札場は一ヵ所。

小金井村
こがねいむら

[現在地名]新田町小金井

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の扇端部と、その南方沖積低地を占め、東は寺井てらい(現太田市)、西は村田むらた村。集落は北部の低台地部に集中し、南部水田地帯中に般若はんにやという小集落がある。村名は「こがない」ともよばれる。小金井四郎左衛門(あるいは四郎右衛門)という戦国期の武士の伝承がある。寛文郷帳では田方一千一八石五斗余・畑方六六二石九斗余で旗本真田・跡部領の二給。元禄郷帳では幕府領。のち館林藩領となる。安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によれば、田八一町五反七畝余・畑七二町三反三畝余・新田五三町九反一畝余、諏訪御林七町五反二畝・堀起し御林三町二反。家数八〇・人数三四九、馬数一〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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