山形城下(読み)やまがたじようか

日本歴史地名大系 「山形城下」の解説

山形城下
やまがたじようか

最上義光によって馬見まみさき川扇状地の扇端部に建設された城下町で、山形町と称される。山形城を中心として北・東・南に広がり、城郭低地に、城下が高地に位置した。山形藩は最上氏の五七万石を最高に、幕末にはわずか五万石を領有するにすぎなかったが、当地は村山郡の中心地であり、船町ふなまちを外港として最上川舟運で上方市場と結ばれる商業都市として繁栄した。

〔城下町の建設と発展〕

当地に初めて築城したのは最上義光の祖先斯波(最上)兼頼と伝える。当時馬見ヶ崎川の主流は現在の旅籠はたご町と六日むいか町の間辺りを西流していた。後代の保科氏時代城下絵図(県立図書館蔵)、秋元氏時代城下絵図(山形市郷土館蔵)などによると、兼頼の築いた城は義光が改築した山形城の二の丸の規模とほぼ一致する。義光の城地拡張以前には、城の北東に光明こうみよう寺、北西に龍門りゆうもん寺などの大寺院があり、城南に十日とおか町・よこ町や八日ようか町・霊堂れいどう小路、西方鍛冶かじ町があって、飯塚いいづか村まで人家が続いていたと考えられる。鍛冶町は東根市真木滋夫氏所蔵鏡銘に「天正山形鍛治町」とみえる。

義光の山形城拡張と町割は、天正(一五七三―九二)頃から文禄年間(一五九二―九六)にかけて開始されたと思われる。城下の町や寺社の縁起などによると、城地拡張の際に三の丸の縄張り内に入った寺社や町が郭外に移され、跡地は中級以上の家臣団の屋敷地とされた(「山形故実録」「山形風流松の木枕」など)。義光時代の城下の様子を知りうる最上氏時代城下絵図は、二八本の写本が確認されており、県立図書館所蔵の藤原守春本は最も優れたものの一つである。原図の製作時期は従来慶長年間(一五九六―一六一五)末期といわれてきたが、現在は元和二年(一六一六)から同六年の間の成立と考えられており、写本のうち天明八年(一七八八)書写のものが最古である。城は本丸・二の丸・三の丸を同心円的に配置した輪郭式縄張りで、三の丸には一一の出入門がある。郭外には町屋敷・下士屋敷・寺社境内地が巧みに配置されていた。三の丸の堀の東・南・北部に町割がなされ、南西端のうわ町から入った羽州街道が東進して八日町で北に折れ、大手前を通って馬見ヶ崎川を渡ってのち六日町で西折し、城の北をかすめてさらに北行、城下北端のどう町に至る。大手前に位置する七日なぬか町で東方小白川こじらかわ村に向かう笹谷ささや街道が、六日町で西方に向かう六十里越街道が分岐する。街路は城下町に多くみられるように屈曲したり丁字路などが工夫されているが、東西の街路はその傾向が強い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山形城下の言及

【山形[市]】より

…市域には樹氷とスキーで知られる蔵王国定公園の観光基地蔵王温泉や立石(りつしやく)寺(山寺)(名,史)などの観光地があり,古代集落跡の嶋遺跡(史)や明治初年の洋風建築である旧済生館本館(重要文化財)などもあり,8月6~8日の花笠踊や秋の芋煮会が市民に親しまれている。【中川 重】
[山形城下]
 地名の初出は室町期の1455年(康正1)。北朝方の斯波兼頼が1356年(正平11∥延文1)その勢力を拡大するため当地に入部し,羽州探題としてこの地方を支配した。…

※「山形城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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