日本歴史地名大系 「山形城下」の解説
山形城下
やまがたじようか
〔城下町の建設と発展〕
当地に初めて築城したのは最上義光の祖先斯波(最上)兼頼と伝える。当時馬見ヶ崎川の主流は現在の
義光の山形城拡張と町割は、天正(一五七三―九二)頃から文禄年間(一五九二―九六)にかけて開始されたと思われる。城下の町や寺社の縁起などによると、城地拡張の際に三の丸の縄張り内に入った寺社や町が郭外に移され、跡地は中級以上の家臣団の屋敷地とされた(「山形故実録」「山形風流松の木枕」など)。義光時代の城下の様子を知りうる最上氏時代城下絵図は、二八本の写本が確認されており、県立図書館所蔵の藤原守春本は最も優れたものの一つである。原図の製作時期は従来慶長年間(一五九六―一六一五)末期といわれてきたが、現在は元和二年(一六一六)から同六年の間の成立と考えられており、写本のうち天明八年(一七八八)書写のものが最古である。城は本丸・二の丸・三の丸を同心円的に配置した輪郭式縄張りで、三の丸には一一の出入門がある。郭外には町屋敷・下士屋敷・寺社境内地が巧みに配置されていた。三の丸の堀の東・南・北部に町割がなされ、南西端の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報