日本歴史地名大系 「鶴ヶ岡城下」の解説
鶴ヶ岡城下
つるがおかじようか
〔大宝寺城下〕
大宝寺城築城の時期は不詳だが、「筆濃余理」には文和二年(一三五三)家督を継承した武藤長盛が居住したと記されることなどから、室町初期には大宝寺城とその城下が形成されていたと推測される。文明四年(一四七二)家督を継いだ政氏は羽黒山別当を兼ね、大宝寺城下に一の鳥居を建てた(同書)。この鳥居は現内川の西岸、近世の
天正一九年越後上杉氏の重臣直江兼続により木戸玄斎に大宝寺城の修復が命じられており(同年五月二三日「木戸玄斎条書」旧山形県史所収文書)、城下にも修復が加えられたとみられる。文禄三年(一五九四)八月一六日の立岩喜兵衛宛直江兼続覚書(編年文書所収文書)には「大宝寺町蔵屋敷以下互自由候之様半分宛可請取之事」とあり、当時蔵屋敷が置かれていたことがわかる。また支配は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報