山田屋大助(読み)やまだやだいすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山田屋大助」の意味・わかりやすい解説

山田屋大助
やまだやだいすけ

生没年未詳。大塩平八郎の乱に応じた能勢一揆(のせいっき)の首謀者の一人。1837年(天保8)7月1日より、摂津能勢(大阪府能勢町)にて、一説に「徳政大塩味方」という幟(のぼり)を掲げたというが、連年飢饉(ききん)につき一国惣有米(そうゆうまい)を人数平均に割り渡すこと、および貸借関係の破棄を京都朝廷より諸国地頭(じとう)へ触れることの2か条の内容の廻文(かいぶん)を回し、付近20か村の村民が今西村杵宮(きねのみや)(岐尼(きね)神社)に屯集し一揆を企てた際の数名の首謀者の一人である。この一揆は総勢1700人あるいは2000人ともいい、簑笠(みのかさ)を着、竹槍(たけやり)・鉄砲を携え、数日にわたり付近を揺るがした。山田屋大助は父の代に大坂に出、斎藤町(大阪市西区)にて鍼(はり)治療・薬屋開業ののち、剣術・柔術を指南したといい、一説に大塩平八郎軍学の門人ともいう。

[宮城公子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田屋大助」の解説

山田屋大助 やまだや-だいすけ

1790-1837 江戸時代後期の一揆(いっき)指導者。
寛政2年生まれ。大坂で薬屋をいとなみ,武術をおしえる。大塩平八郎の乱の影響をうけ,天保(てんぽう)8年米穀の均分支給,徳政令発布をもとめて摂津能勢(のせ)郡(大阪府)で一揆をおこした(能勢一揆)。捕り手の砲撃をうけて同年7月5日死去。48歳。

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