日本大百科全書(ニッポニカ) 「大塩平八郎の乱」の意味・わかりやすい解説
大塩平八郎の乱
おおしおへいはちろうのらん
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有(みぞう)の大飢饉(ききん)であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。もと大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視しえず、養子格之助(かくのすけ)を通じて、しばしば救済策を上申するも拒否された。しかも時の担当者、大坂東町奉行跡部山城守(あとべやましろのかみ)は適切な対策を出せないばかりか、翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米(かいまい)の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれに応じた。さらに市中の大豪商の賑恤(しんじゅつ)もこのときにはふるわなかった。こうした大坂町奉行諸役人と特権豪商に対し、大塩平八郎は彼らを誅伐(ちゅうばつ)してその隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意する。あらかじめ自分の蔵書を売却して金にかえ、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作していた。37年2月19日、大塩は幕政批判の主旨の檄文(げきぶん)を飛ばし、「救民」の旗印を掲げて、私塾「洗心洞(せんしんどう)」に集う門弟二十数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場(せんば)へと繰り出した。一党は300人ほどになっていたが、鎮圧に出動した幕府勢と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、小一日もちこたええず四散する。兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼いた。主謀者大塩父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃。この乱は、幕政の中枢の都市大坂で、しかも元与力であり著名な陽明学者であった人物が主謀したことによりその影響は大きかった。幕政担当者はこれを契機に天保(てんぽう)の改革に取り組み、一般民衆のなかには「大塩残党」を名のる越後(えちご)(新潟県)柏崎(かしわざき)の生田万(いくたよろず)の乱、備後(びんご)(広島県)三原の一揆(いっき)、摂津(大阪府)能勢(のせ)の山田屋大助の騒動などの連鎖反応が起こった。
[宮城公子]