江戸後期の陽明学者、大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)。諱(いみな)は後素、字(あざな)は子起、号は連斎、中斎など。幼少期に父母を亡くしたため、大坂町奉行与力だった祖父の嗣(し)となり、13~14歳ころより町奉行所に出仕する。かたわら、ほとんど独学にて陽明学を修得し、30代の前半に自宅に私塾「洗心洞(せんしんどう)」を開く。門弟には、江戸時代後期、動揺する幕藩制支配の最末端を担った大坂町奉行の与力・同心や、近隣の農村の村落支配者層が多かった。大坂町奉行与力としては切支丹(キリシタン)逮捕、奸吏(かんり)糺弾、破戒僧遠島等々の実績をあげ、与力としての役職の頂点に昇るが、上司の高井山城守(やましろのかみ)(実徳(さねのり)、1763―1834)の辞任と進退をともにし、38歳にて致仕する。以後は「洗心洞」での講学と著述に専心し、『洗心洞箚記(さっき)』上下2巻、『儒門空虚聚語(しゅうご)』2巻、『同附録』1巻、『増補孝経彙註(いちゅう)』1巻、『古本大学刮目(かつもく)』8巻などの著述をなす。その陽明学は経書の解釈において、また、中国・宋明(そうみん)時代の儒者の著作の博引ぶりにおいて、幕末の儒林で有数のものである。1836年(天保7)、年来の大飢饉(ききん)のなかで大坂市中に餓死人が続出すると、陽明学の「万物一体の仁」の立場より、その惨状を傍観視できず、当局に救済策を上申するが拒否される。翌1837年2月、近隣の農民に檄文(げきぶん)を飛ばし、大坂市中の諸役人とそれと結託した特権豪商を誅伐(ちゅうばつ)するため、門弟とともに挙兵するが、小一日もちこたえられず敗走。市中潜伏中、幕吏に囲まれ、同年3月27日自刃。墓は大阪市北区末広町、成正寺(じょうしょうじ)内にある。
[宮城公子 2016年4月18日]
『宮城公子編『大塩中斎』(『日本の名著27』所収・1984・中央公論社)』▽『岡本良一著『大塩平八郎』改訂版(1975・創元社)』▽『宮城公子著『大塩平八郎』(1977・朝日新聞社/復刊・2005・ぺりかん社)』▽『幸田成友著『大塩平八郎』(中公文庫)』
江戸後期の大坂東町奉行所与力で陽明学者。1837年2月に大坂で乱を起こして自殺。父は平八郎敬高,母は大西氏。出生地には大坂天満と阿波美馬郡の2説がある。幼くして両親を失い,与力であった祖父のあとを継ぐ。幼名文之助,長じて平八郎と称し,諱(いみな)は正高,のち後素。字は子起,士起,与力退職後は連斎または中斎という。与力在職中,東町奉行高井実徳に重用されて下記の三大功績をあげ,世に廉直の評が高かった。すなわち1827年(文政10)豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教を弾圧し,29年には四ヵ所非人と結んで不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断し,30年には破戒僧数十名を遠島の刑に処した。この年実徳が奉行を引退したため,みずからも与力職を養子格之助に譲って致仕し,与力時代から天満川崎四軒屋敷に開いていた家塾洗心洞で教学につとめた。中国の呂新吾の著作を読んで陽明学に志し,北宋の張横渠の影響をうけて政治刷新をふくむ独自の学風を築きあげた。〈心太虚に帰す〉〈良知を致す〉〈天地万物一体の仁〉などについての特異な評釈は,〈天満風の我儘学問〉とも評されたが,清直かつ峻厳な教学の内容に心をよせるものも多く,奉行所の与力・同心,医師の子弟や淀川左岸の摂津・河内の豪農がその塾に加わった。農民を愛し,〈民を視ること傷の如し〉といわれ,近隣の村や町場に出講し,また摂津高槻,近江大溝,伊勢の津にも赴いて諸藩士とも交流した。豪農たちは財政的にも,のちの大塩の乱の組織化にも重要な役割を果たしている。飢饉のさなか町奉行らの施策に抗議して事件を起こし,〈知行合一〉をみずから実践して命を絶ったが,これを惜しむものは多かった。著書に《洗心洞劄記(さつき)》《古本大学刮目(かつもく)》《儒門空虚聚語》《増補孝経彙註》などがある。蜂起時の檄文はその思想の極点を示している。
執筆者:酒井 一
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(沼田哲)
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1793.1.22~1837.3.27
江戸後期の大坂町奉行所与力,儒学者。名は後素(としもと),字は子起(しき),通称は平八郎,中斎(ちゅうさい)と号した。父敬高の没後,家職の与力を継ぎ,のちに大坂町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となる。在任中は手腕をふるい名声を高めたが,高井の辞職に際しみずからも辞職。文武両道に秀で,学問では陽明学を修め,私塾洗心洞(せんしんどう)で大坂の与力・同心や近隣の豪農とその子弟などに教授した。1836年(天保7)の大飢饉のとき,東町奉行跡部良弼(よしすけ)に窮民の救済を上申したが聞きいれられず,翌年近隣の農村に檄をとばし挙兵,失敗し逃亡,約40日後に市中潜伏中を発見され自刃した(大塩の乱)。著書「古本大学刮目(かつもく)」「洗心洞箚記(さっき)」。
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…さらに都市貧民の増大により市中に打毀が起こった。天明大飢饉には大規模な打毀があったし,1837年(天保8)元与力で陽明学者大塩平八郎の蜂起は全国に衝撃を与えた。このころから大坂の市況は停滞しはじめた。…
…1837年(天保8)2月19日に,元大坂東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎(中斎)が,門弟の与力・同心や近隣の豪農を中心に幕政の刷新を期して大坂で起こした事件。前年12月ごろから蜂起の決意を固めてひそかに檄文を印刷し,翌年2月6日から3日間蔵書を売却して得た資金で貧民1万軒に金1朱ずつを施行(せぎよう)したが,その額は620両余に及んだ。…
…陽明学者大塩中斎(平八郎)の主著。1833年(天保4)家塾板として出版し,35年に〈後自述〉と門人による跋文を加えて精義堂より再版した。上下2巻。洗心洞は中斎の私塾名,劄記はノートの意で,中斎自身の語録と中国儒者の言葉についての独自の解釈を示したもので,〈太虚に帰す〉と〈明体適用〉の思想を展開し,37年の大塩の乱の背景をうかがいうる。《日本思想大系》所収。【酒井 一】…
…北宋の張載(ちようさい)は無形の宇宙空間を太虚とし,万物はそこに充満する気の自己運動によって形成され,消滅するとふたたび太虚に帰るとする気の哲学を樹立した。明の王守仁(陽明)は〈良知の虚はすなわち天の太虚〉と述べ,大塩平八郎はこの張・王の影響を受けつつ,〈帰太虚〉の哲学を唱道し,日本思想史上に異彩を放っている。【三浦 国雄】。…
…左近将監,駿河守。堺奉行を経て1833年(天保4)大坂町奉行となり,天保の飢饉にさいして元与力大塩平八郎の意見をいれ,米価を調節し窮民の救済に当たり功績を挙げた。その後,庄内藩,長岡藩,川越藩の三方領知替の際には庄内領民の反対運動を取り上げて再審の上書を提出した。…
※「大塩平八郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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