朝日日本歴史人物事典 「山科教成」の解説
山科教成
生年:治承1(1177)
鎌倉前中期の公卿。平業房の子。母は高階栄子(丹後局)。童名を金毘羅丸といい,後白河法皇の下北面に仕えたが,母が法皇の寵妃となったために,法皇の命で藤原(山科)実教の養子となる。侍の子でありながら公卿の家の養子となり,のちの山科家を作った。母とその子宣陽門院の後押しによって,左中将・左兵衛督から承元3(1209)年に参議になるなど順調に出世し,権中納言・正二位に上った。『明月記』建仁1(1201)年条によれば,藤原定家は若年の左中将教成の下にあり,その出世ぶりと人品に反感と憤りを記している。当時噂の人物のひとりだったようだ。
(土谷恵)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報