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鎌倉初期の政治家。実名高階栄子(たかしなえいし)。法印澄雲(ちょううん)の女(むすめ)。後白河(ごしらかわ)法皇の近臣平業房(なりふさ)の妻。夫の死後法皇に仕え、丹後局と称し、法皇の寵愛(ちょうあい)を得た。1181年(養和1)法皇との間に覲子(きんし)(宣陽門院(せんようもんいん))が生まれた。92年(建久3)に法皇が没したが、その遺領として宣陽門院に譲られた長講堂(ちょうこうどう)領は、100か所以上の膨大な荘園(しょうえん)群で、丹後局は、女(むすめ)宣陽門院とこの大所領とを背景にして、京都政界の中心として活躍。宣陽門院の院司源通親(みちちか)と結び、96年(建久7)親幕派であった政敵九条兼実(くじょうかねざね)を失脚させた。しかし通親没(1202)後は昔日のおもかげを失い、京都東山(ひがしやま)の浄土寺に隠れ住んだ。
[田辺久子]
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…かの藤原通憲入道信西も一時は高階氏の養子となり,養家の姓を称して朝廷に出仕している。後白河院の寵妃として有名な丹後局高階栄子も一族の出身である。また後世略して高(こう)氏を称したものもあり,足利尊氏の執事高師直とその一族はとくに有名である。…
…母を建春門院平滋子の乳母若狭局(平政子)とする説もある。はじめ法皇の近臣平業房に嫁したが,1179年(治承3)平清盛のクーデタによって業房が伊豆に配流されることになると,まもなく鳥羽殿に幽閉中の法皇に仕えて丹後局と称し,81年(養和1)には法皇の皇女覲子(きんし)を生んだ。やがて京都政界に隠然たる勢力を築き,〈近日の朝務,ひとえに彼の脣吻(しんぷん)にあり〉と評された(《玉葉》)。…
※「丹後局」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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