朝日日本歴史人物事典 「山科言経」の解説
山科言経
生年:天文12.7.2(1543.8.2)
安土桃山・江戸前期の公家。山科言継の次男,母は葉室頼継の娘。天正5(1577)年1月5日正三位権中納言,同12年12月19日従二位に叙せられたが,翌年6月勅勘を受け出奔し,摂津で本願寺顕如の妻などより経済的支援を受け暮らしていた。同19年徳川家康より扶持米を支給され,文禄1(1592)年9月豊臣秀次に召し抱えられた。慶長3(1598)年12月7日勅勘を許される。家職の衣紋道の造詣深く,徳川家康の参内や将軍宣下のときの装束の世話をした。また,慶長1年4月16日徳川家康の内大臣昇進の推挙のとき,徳川家の家紋を「葵之丸」とすることを勧めた。彼の日記『言経卿記』(1576~1606)は,公家社会の日常を記すだけでなく,漢詩,和歌から医学,薬学にも造詣があったことを伝え,また長い勅勘生活を市井で暮らしたため庶民との交流を記している。
(藤田恒春)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報