山鹿城跡(読み)やまがじようあと

日本歴史地名大系 「山鹿城跡」の解説

山鹿城跡
やまがじようあと

[現在地名]芦屋町山鹿 船ヶ浦

遠賀川河口部の東岸、標高四〇メートルほどの丘陵上に位置し、眼下葦屋あしや津を見渡せる交通の要衝を占める。頂上部に長さ六〇メートル・幅二〇メートルほどの主郭、その北の一段下がった所に長さ七〇メートル・幅三〇メートルほどの曲輪を配置するほか、いくつかの曲輪や土塁・空堀などが確認される。現在城山しろやま公園として整備されている。軍記物語・史書類では寿永二年(一一八三)九月、京都を追われて九州へと下っていった平氏一門が山鹿にある山鹿兵藤次秀遠の館に迎え入れられたとする記事が、当城について記される早い時期のもので、「山鹿ノ城」(保暦間記)、「山賀の城」(平家物語)、「筑前国山鹿の城」(源平盛衰記)などとみえる。

山鹿城跡
やまがじようあと

[現在地名]山鹿市山鹿 上市

山鹿の繁華街湯之端ゆのはたの南の舌状低丘陵部に位置する。別に湯町ゆまち城・清滝きよたき城・上市うえち城などという。菊池氏一流の山鹿太郎重光から重安に至る山鹿氏代々の居城。「鹿郡旧語伝記」によると、舞鶴山像成ぞうじよう寺跡に築城されたという。正平六年(一三五一)一〇月一日の征西将軍宮懐良親王令旨写(阿蘇家文書)に「追落山鹿凶徒城之時」とあって、南北朝期には北朝方に属していた城であることが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報