山鹿郷
やまがごう
「和名抄」諸本のうち東急本は「山庶」とするが、「山鹿」の誤写と考えられる。訓を欠くが、「和名抄」の信濃国諏訪郡山鹿郷の訓「也万加」(高山寺本)、「也末加」(東急本)などから「やまが」と読む。「日本書紀」仲哀天皇八年正月四日条にみえる伝承では、熊襲征討のため筑紫に至った仲哀は「岡県主の祖熊鰐」の先導で「山鹿岬」を廻って「岡浦」に入り、神功は現在の洞海湾から「岡津」に泊まったという。この山鹿岬は現在の北九州市若松区岩屋海岸の遠見ノ鼻(妙見崎)に比定されており、前者は響灘沿岸経由、後者は洞海湾と遠賀川を結ぶ水路を進んだことを示す。このように往古は遠賀川と洞海湾がつながっていたことから、当郷は東を洞海湾、北を響灘、西を遠賀川、南を江川で画された島状の地であったと考えられる。
山鹿郷
やまがごう
「和名抄」高山寺本に「山鹿」と記し「也万加」と訓じるが、流布本では「也末加」と訓じる。ともに「やまか」と読む。現在の茅野市豊平・湖東地区を中心とする地域と推定される(信濃地名考・諸国郡郷考)。そのおよその範囲は現茅野市・諏訪郡原村及び富士見町の一部分を含めたいわゆる「山浦地方」とみる説が多い(信濃地名考・大日本地名辞書・日本地理志料・下諏訪町史・岡谷市史)。
山鹿郷
やまがごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本をはじめ諸本とも訓を欠く。「太宰管内志」は「也万加」と読む。比定地不詳。「日本地理志料」は山鹿は鹿田を誤ったものとし、瓜生野(現宮崎市)の北に位置する鹿野田(現西都市)、あるいは音が似ている北諸県郡庄内郷の金田村(現都城市)を想定する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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