岡村寧次(読み)オカムラ ヤスジ

20世紀日本人名事典 「岡村寧次」の解説

岡村 寧次
オカムラ ヤスジ

明治〜昭和期の陸軍大将



生年
明治17(1884)年5月15日

没年
昭和41(1966)年9月2日

出生地
東京

学歴〔年〕
陸士〔明治37年〕卒,陸大〔大正2年〕卒

経歴
明治40年中尉、陸士生徒隊付として清国学生隊区隊長。大正2年参謀本部戦史課員として青島派遣。6年参本北京駐在。12年参本上海駐在。昭和2年大佐、歩兵第6連隊長。4年陸軍人事局補佐課長。6年大川周明らと宇垣一成軍事政権樹立のためのクーデター計画に関与したが失敗(3月事件)。7年上海派遣軍参謀副長から関東軍参謀副長。11年第2師団長。13年第11軍司令官、大将。16年北支那方面軍司令官、19年支那派遣軍司令官。20年中国軍に投降。22年中国軍法廷に出頭入監。24年無罪となり帰国。25年蔣介石総統の要請で19人の陸軍参謀を台湾に送った。日本郷友連盟会長。

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改訂新版 世界大百科事典 「岡村寧次」の意味・わかりやすい解説

岡村寧次 (おかむらやすじ)
生没年:1884-1966(明治17-昭和41)

陸軍軍人。東京都出身。陸軍士官学校(16期),陸軍大学校卒。1921年ヨーロッパに出張,現地永田鉄山小畑敏四郎と接触し,以後,欧米列強の水準から立ち遅れた陸軍の近代化と総動員準備のため二葉会などの中堅将校集団を通じて軍改革をはかる。その後,関東軍参謀副長,35年参謀本部第2部長などを経て,38年第11軍司令官として漢口攻略戦に参加。41年大将に進み,44年支那派遣軍総司令官となり敗戦をむかえた。戦後は中華民国支持につとめた。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡村寧次」の解説

岡村寧次 おかむら-やすじ

1884-1966 明治-昭和時代前期の軍人。
明治17年5月15日生まれ。関東軍参謀副長,第二師団長などをへて,昭和16年陸軍大将にすすみ,北支那方面軍司令官。19年支那派遣軍総司令官となり,大陸打通(だつう)作戦を指揮した。戦後,中国の戦犯裁判で無罪となった。昭和41年9月2日死去。82歳。東京出身。陸軍大学校卒。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡村寧次」の意味・わかりやすい解説

岡村寧次
おかむらやすじ

[生]1884.5.15. 東京
[没]1966.9.2. 東京
陸軍軍人。 1904年陸軍士官学校,13年陸軍大学校卒業。関東軍参謀副長,軍事参議官などを歴任。 41年大将。同年7月北支那方面軍司令官。 44年から敗戦まで中国派遣軍総司令官。

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367日誕生日大事典 「岡村寧次」の解説

岡村 寧次 (おかむら やすじ)

生年月日:1884年5月15日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。大将
1966年没

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世界大百科事典(旧版)内の岡村寧次の言及

【三光政策】より

…1940年後半,中国の八路軍は百団大戦と呼ばれる作戦を展開,日本軍に大きな打撃を与えた。新任の岡村寧次北支方面軍司令官(中将)は,日本軍の作戦重点を国民党軍から共産党軍に移す方針を打ち出し,共産党の指導するすべての根拠地の周辺に対し,徹底した掃討戦を行った。〈燼滅とは,敵性ありと判断される村落をことごとく――家屋,畜類はもとより住民までも殺戮し,焼き払ってしまい,敵地区との間に無人地帯を設定するのが作戦の主目的であった〉といわれる。…

※「岡村寧次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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