コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

永田鉄山 ながたてつざん

6件 の用語解説(永田鉄山の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

永田鉄山
ながたてつざん

[生]1884.1.14. 諏訪
[没]1935.8.12. 東京
陸軍中将。 1904年陸軍士官学校卒業。 11年陸軍大学校を卒業し,13年歩兵 58連隊中隊長。同年ドイツに駐在。 15年デンマークスウェーデンに駐在。帰国後,20年論文「国家総動員に関する意見」を発表。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ながた‐てつざん【永田鉄山】

[1884~1935]陸軍軍人。長野の生まれ。第一次大戦後、国家総力戦体制を推進。統制派中心人物。軍務局長のとき皇道派相沢三郎中佐に斬殺された。→相沢事件

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

永田鉄山 ながた-てつざん

1884-1935 大正-昭和時代前期の軍人。
明治17年1月14日生まれ。陸軍省動員課長,軍事課長,歩兵第一旅団長などを歴任する。総動員体制を推進し,陸軍の統制派の中心メンバーとして活動。軍務局長在任中の昭和10年8月12日,局長室で皇道派の相沢三郎中佐に刺殺された。52歳。死後中将。長野県出身。陸軍大学校卒。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

ながたてつざん【永田鉄山】

1884‐1935(明治17‐昭和10)
陸軍軍人。長野県出身。1911年陸軍大学校を優等で卒業後,ドイツに駐在して軍事研究を行った。16年デンマーク駐在,20年スイス在勤帝国公使館付武官となり,第1次世界大戦前後のヨーロッパの軍事情勢を学ぶなかで国家総動員の必要性を認識するに至った。帰国後,23年に参謀本部作戦資材整備会議幹事,陸大教官,26年に陸軍省整備局動員課長,28年に第3連隊長,30年に陸軍省軍務局軍事課長,32年に参謀本部第2部長,歩兵第1旅団長と,いわゆる統制派の中心人物としてエリートコースを進み,34年に軍務局長に就任した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ながたてつざん【永田鉄山】

1884~1935) 陸軍軍人。長野県生まれ。中将。統制派の中心人物と目され、軍務局長のとき皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

永田鉄山
ながたてつざん
(1884―1935)

昭和期の陸軍軍人。明治17年1月14日長野県生まれ。陸軍士官学校16期、陸軍大学校23期卒業。軍事研究のためドイツ、デンマークなどに駐在。スイス駐在中の1921年(大正10)ドイツで小畑敏四郎(おばたとししろう)、岡村寧次(おかむらやすじ)、東条英機(とうじょうひでき)らと陸軍刷新、総動員体制構築について盟約を結び、のちに省部中堅幕僚の横断的結合組織である二葉会を結成した。1926年整備局動員課長、1930年(昭和5)軍務局軍事課長、1932年参謀本部第二部長を経て、1934年軍務局長。この間ファッショ的総力戦体制構築の中心的推進者として軍事行政に辣腕(らつわん)を振るった。統制派のリーダーで、将来の陸相との声も高かったが、真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監更迭の首謀者、財閥・重臣との通謀者と目され、皇道派相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐に昭和10年8月12日軍務局長室内において斬殺(ざんさつ)された。[山田 朗]
『永田鉄山刊行会編『秘録永田鉄山』(1972・芙蓉書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の永田鉄山の言及

【相沢事件】より

…1935年8月12日相沢三郎陸軍中佐が,統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山を白昼省内で斬殺した事件。相沢は1931年青森の歩兵第5連隊大隊長就任後,十月事件が計画されるころより,同連隊付の大岸頼好中尉を通じて皇道派の青年将校と接触を深め,その思想に傾倒していった。…

【皇道派】より

…荒木陸相,真崎参謀次長以下,柳川兵助陸軍次官,山岡重厚軍務局長,松浦淳六郎人事局長,小畑敏四郎参謀本部第三部長,秦真次憲兵司令官,持永浅治東京憲兵隊長らの皇道派が陸軍の要職を占め,さらに平野助九郎・満井佐吉ら佐官級軍人,荒木の〈革新〉的姿勢に期待を抱いた急進的な隊付青年将校もこれに連なった。しかし,とくに荒木に強くみられる観念的・日本主義的な〈革新論〉,対ソ即戦的見解などが,宮廷グループ,政・財界の危惧を招いたうえ,その派閥的人事に対する陸軍部内の反発も強く,33年末,荒木が陸軍予算を海軍に譲ったことを一因に,陸軍部内の荒木への信望は衰え,荒木辞職後,34年3月就任した永田鉄山軍務局長に代表される幕僚層を中心とする反皇道派勢力(いわゆる統制派)の反撃にあい,皇道派系要人は相次いで左遷された。こうした対立のなかで,皇道派は,平沼騏一郎擁立運動を行うとともに,反対派を〈国家社会主義〉として非難。…

【統制派】より

…皇道派に比べて派閥としての実態は明確でなく,皇道派による派閥人事や,その観念性,および皇道派に連なる急進的な隊付青年将校の行動を統制をみだすものとして反発する反皇道派の中央幕僚層の総称とみなすべきであろう。永田鉄山,東条英機,片倉衷らがその中心と目される。1933年11月,池田純久らの幕僚将校が,急進青年将校の横断的運動をやめさせようと,そのリーダーたちと会見し,ものわかれに終わったのが反皇道派グループ登場の契機とみられる。…

※「永田鉄山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

永田鉄山の関連キーワード陸軍大臣児島惣次郎瀬川章友田村守衛仁田原重行畑英太郎広瀬猛山岡熊治山田乙三吉岡顕作

今日のキーワード

カルテット

四重唱および四重奏。重唱,重奏の形態のなかで最も基本的なもので,声楽ではルネサンスの多声歌曲の形式であるシャンソンやフロットラから始り長い歴史をもつ。器楽も同様で,特に弦楽四重奏は室内楽の全レパートリ...

続きを読む

コトバンク for iPhone

永田鉄山の関連情報