日本歴史地名大系 「岩地村」の解説 岩地村いわちむら 静岡県:賀茂郡松崎町岩地村[現在地名]松崎町岩地道部(みちぶ)村の南西に位置する。北は駿河湾に面し、湊は西の日和(ひより)山の岬で冬季の西風を防ぐ。鎌倉時代初期の「閑谷集」には「いはち」がみえ、「こひいし」と名付けられた大石があったという。江戸時代は賀茂郡に属し、初め幕府領、天明二年(一七八二)相模小田原藩領、天明五年(一七八五)幕府領を経て、文化八年(一八一一)旗本蜂屋領となり幕末に至る(「韮山町史」など)。延宝六年(一六七八)には高四四石余、田一町四反歩・畑屋敷八町余(「検地帳」斉藤家文書)。元禄郷帳でも同高。寛文八年(一六六八)雲見(くもみ)村との間で浅間(せんげん)山について(「手形証文」高橋家文書)、享保一七年(一七三二)には石部(いしぶ)村と秣場について出入があった(「取替セ申一札」石部区有文書)。 岩地村いわちむら 岐阜県:岐阜市旧厚見郡地区岩地村[現在地名]岐阜市岩地一―四丁目・長森岩地(ながもりいわち)前一色(まえいつしき)村の東に位置し、南は蔵前(くらのまえ)村、東は水海道(みずかいどう)村。平地中央に集落がある。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高一八二石余。正保郷帳では田九五石余・畑八六石余。領主の変遷は前一色村と同じ。寛永六年(一六二九)の免定(篠田文書)によれば物成二九石余、ほか稗二石余。宝暦九年(一七五九)の村明細帳(赤地文書)によれば、寛永一二年の検地高一九四石余で、寛文四年(一六六四)一石余、元禄四年(一六九一)一九石余が検地増石している。 岩地村いわちむら 岐阜県:各務原市岩地村[現在地名]各務原市那加岩地町(なかいわちちよう)・那加芦原町(なかあわらちよう)・那加土山町(なかどやまちよう)・那加琴が丘町(なかことがおかちよう)など北の桐野(きりの)村から南流する轟(とどろき)川の流域に位置する。各務(かかみ)郡に属し、東は西市場(にしいちば)村・山後(やまうしろ)村。木曾川出水時に流れが逆流して被害を受ける北限にあたる。元禄郷帳に西市場村枝郷として村名がみえ旗本徳山領、高三八石余。元禄郡高寄帳には新村と記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by