岩屋寺跡(読み)いわやじあと

日本歴史地名大系 「岩屋寺跡」の解説

岩屋寺跡
いわやじあと

跡地は不明であるが、「雉城雑誌」は古国府ふるごう村にあったとする。鎌倉初期の成立と考えられる「宇佐大鏡」に引用する康平二年(一〇五九)三月一三日の国司庁宣に、字勝津留かちがづるにある畠等の南の境として「岩屋寺前」とあり、同じく承保四年(一〇七七)八月一六日の内蔵近次申状にも、大分郡判太はた笠和かさわ荏隈えのくまの三ヵ郷の境にあった字勝津留の田畠一〇〇町の南境が岩屋寺前であったという。大友貞宗直翁智侃が巌屋寺の故事について談じた際に直翁が話した民間の伝説によれば、敏達天皇一二年七月天皇の命によって来朝した百済国の日羅が上洛する途中当地に立寄り、岩に観自在菩薩ならびに脇士の像を彫刻し、さらに薬師如来および十二神将像を刻んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

《料理されるためにまないたにのせられた魚の意から》相手のなすに任せるより方法のない運命のたとえ。まないたの鯉こい。[類語]俎板まないたの鯉こい・薬缶やかんで茹ゆでた蛸たこのよう・手も足も出ない...

俎上の魚の用語解説を読む