岩屋寺(読み)いわやじ

日本歴史地名大系 「岩屋寺」の解説

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]横田町中村 馬場

横田八幡宮の北方、岩屋寺山(六〇七・九メートル)の中腹にある真言宗の寺院。宗教法人としては別格本山岩屋寺で、単立。金巌山と号し、本尊は十一面観音。開山は行基で、聖武天皇の勅願所と伝える(「快円日記」岩屋寺文書、以下同文書は省略)。弘安四年(一二八一)横田八幡宮が馬場ばばに移されたが、本願は北条時頼後室尼妙音、供僧別当は岩屋寺円長であった(横田八幡宮棟札)。妙音は延慶二年(一三〇九)四月八日に横田庄下中しもなか村のうち二反を権現田として、正和二年(一三一三)三月五日には山本一所を、同年四月一七日には権俗ごんぞく名一町半などを寄進した(北条時頼後室寄進状など)。文保二年(一三一八)五月二一日には中原某から権俗名一町を寄進され公事課役一切を免除されている(中原某寄進状)。元弘三年(一三三三)五月一五日後醍醐天皇から当寺住侶祐円に祈祷が命じられ(後醍醐天皇綸旨)、観応元年(一三五〇)には足利尊氏から凶徒退治の祈祷のため大般若経の転読が命じられている(七月二八日足利尊氏御教書)

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]美川村七鳥 竹谷

海岸山と号し、真言宗豊山派。本尊不動明王。四国八十八ヵ所中の四五番札所である。標高六〇〇メートル、麓の直瀬なおせ川からは二〇〇メートルの山上にある。古岩屋ふるいわや(現久万町)に隣接し、ともに巨大な礫岩峰が数多くそびえ立ち、岩壁には大小さまざまの洞窟があって特異の景観を呈しており、国指定名勝。

明治三一年(一八九八)の火災で鐘楼門のほか、ことごとくを焼失し、現在の建築は大正九年(一九二〇)の竣工であるが、とくに五間四面宝形造の大師堂は大蔵省建築部川口庄一技師の設計になり、四国八十八ヵ所中、随一の建造物といわれる。

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]大宮町字谷内 鳶ヶ尾

谷内たにうち集落南方の山中、通称ぼうおくにある。山号本城山、真言宗、本尊不動明王(伝智証大師作)

縁起や寺伝などによれば行基の開基で、行基が谷内集落より南方約一キロほどの竜洞滝で修行中、不動尊を感得して岩屋寺本尊とし、近世初期まで滝の岩上に安置してあったという。またもとの寺地は現在地より西方の山奥約五〇〇メートルの所で、塔頭成就じようじゆ(現成勝院)は寛永九年(一六三二)田辺たなべ円隆えんりゆう(現舞鶴市)塔頭成就院、宮津の如願によがん(現宮津市)塔頭成就院の開山宥栄が、三番目の成就院として造立し、それを本城七右衛門の敷地喜捨により現在地へ移したとされている。慶安二年(一六四九)京都大覚だいかく寺末となり、現峰山みねやま町字橋木はしぎ縁城えんじよう寺とともに名刹となった(三重郷土志)

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]南知多町山海

大悲山と号し、尾張高野山宗本山、別称岩屋千眼光いわやせんげんこう寺、通称岩屋山、尾張高野山ともいい、本字は巌窟いわや寺と書く。本尊千手観音は金銅造丈八寸、唐の楊貴妃守り本尊と伝える。前立本尊千手観音、脇侍不動明王・毘沙門天は行基作という。

空海撰と伝える巌窟寺儀軌(岩屋寺蔵)によれば、須佐すさ村の長須佐長春が同村海中から金銅千手観音を得、元正天皇勅願により霊亀元年(七一五)行基を開山として七堂一二坊の大伽藍を営み、本尊を安置し千眼光寺の号を称した。

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]総社市奥坂 岩屋

標高四〇〇メートル前後の連山の一角にある真言密教系の山岳寺院新山にいやま寺跡・ノ城跡と連なり、寺域の山上をへびヶ嶽、また岩屋山という。裏山に洞窟があり、鬼ノ城伝承のなかではここに温羅うらが住んだという。開創年代については諸説あるが、「備中誌」収載の寛正三年(一四六二)岩屋寺の東塔院宥心が書いた「岩屋寺記」によると、孝徳天皇のとき道教が開山し、往時坊数一一四を数えたと伝える。

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]三和町小畠 岩屋

九鬼くき城跡の北方、小田おだ川に沿う東西に長い岩屋の沃野の中央に位置する。山号能救山、臨済宗永源寺派。寺伝によれば行基の開創で、本尊薬師如来も行基作という。霊場星居ほしのこ山に関係をもつ播磨書写山円教えんきよう(現姫路市)の性空が長保五年(一〇〇三)に来住したこともあったがその後荒廃、備後北部の地毘じび庄地頭山内通資が永仁五年(一二九七)に再興したと伝える。

岩屋寺
いわやじ

[現在地名]三次市畠敷町

岩屋寺谷いわやじだに川の上流山中にあり、真言宗御室派。吉祥山多聞院と号し、本尊は千手観音・十一面観音・聖観音の三体。

「芸藩通志」は「天和年中災ありて什物縁起共に失ふ、伝云、大同元年行基の草創、又曰、暦応二年足利尊氏堂宇を造営し、天文中地頭三吉致高本堂二王門を修造す、福島氏寺領を没して漸く衰廃せしを、寛永中三次君修復して歳米九石を施せり、観音堂は岩窟の下にあり、龕前の鉄灯籠に三吉安房守藤原隆亮 天正十二甲申六月吉日と銘記す」と記し、「吉祥山十勝」として「金剛門・大悲窟・世音瀑・墜剣峯・影竜池・偃松・竹林・旗渓・徳能嶺・薛茘峯」をあげている。

岩屋寺
いわやでら

[現在地名]姫路市豊富町神谷

神谷こだに川左岸の山中にある。有乳山と号し、天台宗。本尊は毘沙門天。大化元年(六四五)法道の開基と伝える。当寺の由緒によると、白雉元年(六五〇)孝徳天皇が病にかかったとき諸国の神社・仏閣に平癒祈願を行わせたが効き目がなかった。そのため当寺の法道がよばれ毘沙門天の神呪を誦するとまもなく平癒した。天皇は寺領一千貫を与え七堂伽藍を建立、瑞花山岩屋寺と称させた。その後ますます栄え衆徒一八ヵ坊を有したという。天正五年(一五七七)別所氏により伽藍・寺坊がことごとく焼却され寺領も押領されたが、本尊の毘沙門天は寺僧によって背負われ無事であった。

岩屋寺
がんおくじ

[現在地名]原町市上太田

旧浜街道西方の字前田まえたにある。太田山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。「奥相志」は本尊を古くは聖観音、のち阿弥陀如来とし、開山は遠山祖久、開基は天石健公(相馬治部少輔重胤、元亨三年に行方郡に下向した重胤の子孫)とする。往古は天台宗寺院であったが廃寺となり、再建後の永享一一年(一四三九)に治部少輔重胤が入龕(遺体を棺に入れること)し、龕置がんおく寺と号した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩屋寺」の意味・わかりやすい解説

岩屋寺
いわやじ

京都市山科(やましな)区西野山桜ノ馬場町にある曹洞(そうとう)宗の寺。智証(ちしょう)大師(円珍(えんちん))の作と伝えられる本尊の不動明王は、浅野家の遺臣大石良雄(よしお)が山科に隠棲(いんせい)していたときの念持仏であった。境内には47人の赤穂(あこう)義士の木像を安置する木像堂、大石良雄植髪之墓がある。寺宝として大石の手跡が残されており、義士ゆかりの寺として訪れる人が多い。

[菅沼 晃]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「岩屋寺」の解説

岩屋寺

愛媛県上浮穴郡久万高原町にある真言宗豊山派の寺院。山号は海岸山、本尊は不動明王。弘法大師(空海)の開創と伝わる。四国八十八ヶ所霊場第45番札所。標高700mに位置する山岳霊場で、寺域にある連なる岩の峰「古岩屋」は国の名勝、大師堂は国の重要文化財に指定されている。

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