岸和田村(読み)きしわだむら

日本歴史地名大系 「岸和田村」の解説

岸和田村
きしわだむら

[現在地名]岸和田市五軒屋ごけんや町・宮本みやもと町・岸城きしき町・うえ町・南上みなみうえ町一―二丁目・野田のだ町・野田町一―二丁目・ほん町・さかい町・魚屋うおや町・きた町・みなみ町・大工だいく町・中之浜なかのはま町・紙屋かみや町・大手おおて町・なか町・中北なかきた町・大北おおきた

和泉平野の海辺、春木はるき川と津田つだ川の間に位置し、岸和田城の所在地。近世には村方・町方(岸和田城下)・浜方の三郷からなっていた。魚棚うおのたな(古城川)が村の中央を北西流し、岸和田城の東外郭に沿って港に注ぐ。岸和田水路と紅葉もみじ川水路の水は土生はぶ村との境界で合流し、内堤(手代町)で魚棚川に入る。紀州街道は北東から城の北側を北西に走り、府中ふちゆう街道は東大手から北東に斜走してぬま村に入り、牛滝うしたき街道は東大手から出る府中街道から分れて南東に走り、作才ざくざい村に入る。塔原とのはら街道は神明しんめい門から南東に延びて土生村に入り、久米田くめだ道は沼村で府中街道から分れて久米田池の池尻いけじりに至り、牛滝街道に接続する。水間みずま街道は南大手から南東に斜走し、旧貝塚かいづか町を経て水間寺(以上現貝塚市)に至り、なか道も南大手から南走し貝塚(現同上)を経て粉河こかわ街道に連なる。

〔中世〕

岸和田の名称は、和田文書にみえる和泉国の武士岸和田氏ら一族の名字が文献上の初見。延元二年(一三三七)三月日の岸和田治氏軍忠状案によると、治氏は楠木正成に従って同元年五月の兵庫湊川合戦に参加し、六月から八月も後醍醐天皇方として洛中洛外で転戦、九月には和泉で兵を起こした畠山国清を迎撃、八木やぎ城に籠って合戦し、蕎原そぶら(現貝塚市)を攻めるなど、南北朝内乱初期の宮方軍勢の一員として活躍した。もと泉北の和田の一族で、当地の「岸」の地に移住して「岸の和田」と称したのがその起りであるという伝承があり、野田町に和田氏古城跡と伝える所がある(大阪府史蹟名勝天然記念物)。この岸和田氏一族の名字の地が岸和田庄で、内乱期には庄そのものを知る史料はないが、応永七年(一四〇〇)九月、足利義満は和泉国岸和田庄半分を山城石清水いわしみず八幡宮に寄進し(同年同月二八日「足利義満御判御教書」石清水文書)、管領畠山基国が和泉国半国守護仁木義員にこれを施行している(同月二八日「畠山基国施行状」同文書)。もと南朝方の所領庄園であったものが幕府側の手中に帰し、その半分が石清水八幡宮領とされたのであろう。この岸和田庄の寄進後もなお守護方の段銭等が賦課されたので、同年一一月幕府は八幡宮領雑掌の訴えに基づいて段銭以下の催促の停止を命じた(同年同月七日「室町幕府下知状」同文書)

岸和田村
きしわだむら

[現在地名]門真市岸和田

巣本すもと村の南にあり、東は河内屋北かわちやきた新田(現寝屋川市)深野北ふこのきた新田(現大東市)ほか。宝永元年(一七〇四)の大和川川違え以前は深野池の西岸にあたった。南北に細長い平坦地の村。巣本村と接する北境を東西に清滝きよたき街道が通り、北東端を寝屋川が南流する。村内で二町二間の寝屋川堤は馬踏一間二尺・敷二間二尺であった(明治一五年岸和田村誌)。集落はほぼ中央部東寄りにある。北部の集落済堂さいどうは巣本村の出屋敷として生れた。「河内国小松寺縁起」に載せる久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨に地名がみえ(ただしこの文書は検討の余地がある)、中世には岸和田庄があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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