土生村(読み)はぶむら

日本歴史地名大系 「土生村」の解説

土生村
はぶむら

[現在地名]岸和田市土生町

作才ざくざい村の西から南にかけて、津田つだ川の旧河床を占める緩やかな傾斜地域に位置する。紅葉もみじ川水路が村内を北西に走って岸和田村へ入る。熊野街道(小栗街道)が村の西を北東から南西に貫通し、村境を走る塔原とのはら街道は南東から村内に入って、当村で熊野街道と交差して岸和田村に至る。

〔中世〕

中世の土生村は木島きのしま郷の内にあり、鎌倉中期の久米田寺文書に「木島郷内埴生村」「木島郷土生度」とみえている(宝治二年一二月五日「関東下知状」・建長元年六月二八日「木島郷土生度田数注文案」)。埴生村という表記は、文暦二年(一二三五)の和泉国衙の田所注進にあったもののようであるが、国の官人がそう書いたとすると、もとはハニフとよばれたのかもしれない。建長元年(一二四九)に土生村地頭平左衛門入道の代官が土生村の田数を報告したところによると合計三二町一反三〇〇歩あり、それらは反別五升の加徴米(承久の乱後の新補地頭の得分)を免除された加徴御免田二三町五反三〇〇歩と、加徴米を負担する加徴田八町六反の二つに大別されていた。大部分が免田であるが、それらは雨降あふり大明神(土生滝の式内社意賀美神社)神於こうの寺・久米田くめだ寺・加守かもり寺のような在地の社寺、今泉いまいずみのような権門庄園、召次給・地頭給田(もと惣刀禰給田)のような人給田など、特権的な給免田であった。これに対して女院領免田や公卿の位田などは加徴田とされたが、加徴田のなかに本来の公領である国衙定田もわずか三町六反含まれている(木島郷土生度田数注文案)

土生村
はぶむら

[現在地名]川辺町土生・小熊こぐま千津川せんづがわ鐘巻かねまき御坊ごぼう藤田ふじた藤井ふじい

日高川下流の北岸に広がる。村の北西にじようガ峰(三一八メートル)、東にオクボ山(二〇六・七メートル)がある。南東は若野わかの村、南は日高川を挟んで野口のぐち(現御坊市)。日高郡山間奥地への入口にあたる。「続風土記」に「土生は埴生はにふの中略、万葉集に黄土又は赤土とも書かれ、すへて染物・塗物等に用ゐる土をはにといひ、はその土の生する所といふ」とあり、現在でも村域内丘陵地に良質の赤土がある。村の南部土生川と矢田やた川の中間にある集落は、土生八幡神社の正平年中(一三四六―七〇)の鐘銘に「千手の里」とあり、俗に千津とよぶ。

慶長検地高目録によると村高一千四五八石余、小物成一・三七六石。

土生村
はぶむら

[現在地名]因島市土生町

田熊たくま村の東南、因島最南端に位置し、東は標高二〇七・五メートルの天狗てんぐ(浅間山)を境として三庄みつのしよう村に接する。西南は生名いきな(現愛媛県越智郡生名村)で、その間は長崎ながさき瀬戸とよぶ。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では分村されておらず、寛永一五年(一六三八)に初めて地詰が行われた。その時の土生村地詰帳(「因島市史」所収)では畝数二九町二反余、高一五四・七八五石で屋敷持農家が三五軒。

土生村
はぶむら

[現在地名]府中市土生町・用土ようど

芦田あしだ川が東北から東南に流れを変えた地点の右岸に位置する。「西備名区」土生村の項に「用土村、里諺にようろと云、古への一小村、今は本村に属して支となる」とみえ、現用土町一帯を用土村ともよんだ。「福山志料」は「与保土村」と記す。元和五年(一六一九)の備後国知行帳にはみえないので、これ以前に土生村に含まれたのであろう。同帳によれば土生村の高四八三石余、元禄一三年(一七〇〇)の土生村御検地水帳(広島大学蔵)では反別五三町余・高四一六石余。

土生村
はぶむら

[現在地名]香住町土生

はた村の南東に位置する。佐津さづ川支流土生川の上流域を占め、集落は同川沿いの谷間に発達。北は下岡しもおか村、北東は本見塚もとみづか村、南東は門谷もんだに(現竹野町)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「はむ村」とみえる。近世の領主の変遷は丹生沖浦にゆうおきのうら村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高二六石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。

土生村
はぶむら

[現在地名]福光町土生

土生新村の南西、小矢部おやべ川右岸にある。東部を山田新田やまだしんでん用水が北東流する。天文五年(一五三六)三月一二日の最勝寺塔頭并末寺目録(最勝寺文書)に「乗名一所 土生之内」とみえる。同一九年の永福寺領田数帳および同寺領畠年貢銭帳(いずれも永福寺文書)によれば、石坂次郎兵衛から永福えいふく(現富山市)へ寄進された畠一〇〇本が「はぶの在所之北」にあったほか、「はふ」の者が作職をもつ田畠が数ヵ所同寺へ寄進されていた。

土生村
はぶむら

[現在地名]高石市取石とりいし一丁目・同四―六丁目・西取石にしとりいし七丁目など

新家しんけ村・大園おおぞの村の東にあり、熊野街道(小栗街道)が村の東端を縦走する。近世には綾井あやい五ヵ村の一であったが、中世には草部くさべ下条しもじよう(堺市の→草部郷に属したことも考えられ、現奈良県吉野郡上北山かみきたやま宝泉ほうせん寺蔵の元亨二年(一三二二)銘の鐘に「和泉国大鳥郡草部郷下条土生村善福寺鐘矣」と刻する。善福ぜんぷく寺の寺跡は不明。江戸時代前期は綾井村のうち(→市場村。延宝五年(一六七七)の綾井村年々下札写(井上家文書)によると、寛文四年(一六六四)の土生村の高一二八石余。天保期(一八三〇―四四)の泉州一橋領知村々様子大概書(一橋徳川家文書)によると、延宝七年の検地で村高一四〇石余となり、うち田方一二八石余・畑方一一石余、村高は幕末まで変わらない(「免定」山条家文書)

土生村
はぶむら

[現在地名]吉備町土生

天満てんま村の南、水尻みずしり村の東、三方を丘陵に囲まれた平野部に位置する。「続風土記」は「波夫は埴生の中略なり、埴説文に粘土也とあり」といい、当地の城山しろやましばだん風呂ふろたに前山まえやまには古窯跡(土生古窯跡群)がある。城山の丘陵北部斜面と麓は現在蜜柑畑となっているが、古墳時代以降の須恵器、白鳳時代以降の古瓦(複葉七弁蓮華文軒丸瓦)が発見された。

土生村
はぶむら

[現在地名]岩国市大字土生

近延ちかのぶ行正ゆきまさ両村から流れ出た谷川と、大山おおやま村よりの川が保木ほうき川に合流する付近に位置する。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に「埴生村」とみえる。村名由来を「玖珂郡志」は「土生伯耆守国広住ス」と記す。「御領分村一紙」以外はみな土生と記している。小名に六反田ろくたんだ岡の辻おかのつじ宗清むねきよ国広くにひろなどがある。

土生村
はぶむら

[現在地名]南淡町灘土生なだはぶ

地野ちの村の東、紀伊水道に面した諭鶴羽ゆづるは山系南東面の崖地にある。国衙こくが(現三原町)から続いた沼島ぬしま道は当村の沼島浦への舟渡場までで終わる。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録にみえる「なだ」一〇三石六斗のうちに含まれ、正保国絵図下灘しもなだ一二ヵ村の一として村名がみえる。同絵図では山間を牛馬が通れる二里余の間道が阿万東あまひがし村へ続いている。享保元年(一七一六)の両国郷村高辻帳(蜂須賀家文書)では高一六石余。天保郷帳では高八三石余。油谷組に属した。反別戸数取調書によると反別一〇町五反余、高八二石余はすべて蔵入地。

土生村
はぶむら

[現在地名]佐伯町宇生うぶ

王子おうじ川中流域に集落がある。東は宇屋うや村、西は田尻たじり村。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)佐井木さいき庄田生村とある。寛永備前国絵図に土生村とみえ、高一二六石余。「備前記」には壬生村と記され、「備陽記」でも同表記、田畠七町三反余、家数三七・人数一六三、岡山城下京橋きようばしまで道程六里一五町、池一。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば直高二〇六石余、家老土倉四郎兵衛の給地。

土生村
はぶむら

[現在地名]奥津町土生

おもに蛇行する吉井川右岸にあり、対岸は久田下原くたしものはら村。西と南は中谷なかだに(現鏡野町)に接する畑がちの村である。正保郷帳に高一一七石、うち田方三七石余・畑方七九石余とある。「作陽誌」では家数六〇・人数二九四。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高二四七石余・開高四石余。享保一一年(一七二六)津山藩の減封により幕府領、延享二年(一七四五)より宝暦四年(一七五四)の間因幡国鳥取藩預地、幕府直轄に戻り、天明七年(一七八七)から寛政一一年(一七九九)の間下総国佐倉藩領、再び幕府領、文化一四年(一八一七)津山藩領、天保九年(一八三八)幕府領津山藩預地となる(「美作国郷村支配記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報