日本歴史地名大系 「岸和田市」の解説 岸和田市きしわだし 面積:七〇・八五平方キロ府の南部、和泉地方のほぼ中央部に位置し、葛城山を源として北西に流れる牛滝(うしたき)川・津田(つだ)川の流域を占め、東西七・六キロ、南北一七・三キロの細長い地形をなし、東は和泉市、西は貝塚市、南は和泉山脈を隔てて和歌山県に接し、北西は大阪湾に臨む。近世の城下町岸和田を中心に大正一一年(一九二二)に市制を施行、その後周辺や山間部の町村を順次合併し、昭和二三年(一九四八)に現在の市域になった。〔原始〕市域では旧石器時代後期の遺跡が葛城山頂・岡山(おかやま)町・尾生(おぶ)町にあり、サヌカイト製のナイフ形石器が出土する。縄文時代には山地・丘陵地の遺跡と並んで大阪湾に面した砂丘上に春木八幡山(はるきはちまんやま)遺跡が現れ、石鏃とともに中期から晩期の畿内瀬戸内文化圏に属する土器が発見されている。弥生時代になると、海辺の加守(かもり)地区に早く弥生文化が伝わって前期集落が出現し、中期には八木(やぎ)地区にも下池田(しもいけだ)遺跡などの弥生集落が群立、遅れて畑(はた)遺跡に代表される木島(きのしま)地区の集落が形成された。一方、山直(やまだい)地区も前期以来集団が定着し、後期にかけて谷の奥を開いていったようである。山直の奥にある神於(こうの)山のおぐら谷からは流水文銅鐸が出土し、大阪湾を隔てた六甲(ろつこう)山麓の神戸市灘(なだ)区桜(さくら)ヶ丘(おか)町で発見された第二号銅鐸が、それと同じ鋳型で作られたことが知られている。四世紀の前期古墳の時代になるとこの地方に大首長が出現し、全長二〇〇メートルに及ぶ和泉地方最大の前方後円墳、摩湯山(まゆやま)古墳が築造され、次いで全長一三五メートルの貝吹山(かいぶきやま)古墳が現れた。これら中期の大首長墓が衰退した後に登場する後期の群集墳としては、岡山・天神山(てんじんやま)・春木の三つの古墳群が存在する。〔古代〕古代における市域は、和泉郡の山直(やまたえ)・八木・掃守(かにもり)・木島の四郷(和名抄)にほぼ相当し(木島郷は現貝塚市にわたる)、延喜式内社としては山直郷の山直(やまだい)神社・積川(つがわ)神社・楠本(くすもと)神社・淡路(あわじ)神社、八木郷の夜疑(やぎ)神社、掃守郷の兵主(ひようず)神社、木島郷の矢代寸(やしろき)神社・意賀美(おがみ)神社・波多(はた)神社が鎮座しており、それらと関係が深い豪族に、山直・八木造・掃守首・波多宿禰などがいた。市域内の地名が確かな古代文献に出てくるのは、天平勝宝九年(七五七)四月七日の西南角領解(正倉院文書)の八木郷で、そこに記された東大寺舎人布師浄足は、和泉郡八木郷戸主布師乎万呂の戸口であった。奈良時代には僧行基が、市域の岡山・久米田(くめだ)・尾生の丘陵に囲まれた地に久米田池を築造し、長さ二千丈の溝を掘り、天平六年(七三四)池辺にいわゆる行基四十九院の一つ隆池(りゆうち)院(久米田寺)を建立した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岸和田市」の意味・わかりやすい解説 岸和田〔市〕きしわだ 大阪府南部,大阪湾岸から和泉山脈北斜面に広がる市。1922年市制。1948年までに春木(はるき)町,山直(やまだい)町ほか 5村を編入。中心市街地の岸和田は,江戸時代,岡部氏 5万3000石の城下町で,和泉木綿の集散地としても知られた。明治中頃から紡績,織物業が発達,泉州紡織工業地域の一中心地となった。第2次世界大戦後,岸和田港一帯に臨海工業埋立地が造成され,大阪鉄工金属団地が進出,隣接する忠岡町の海岸にかけて木材コンビナートも建設された。農村部では米作のほか野菜,花卉の栽培や酪農が行なわれる。積川(つがわ)神社本殿,兵主(ひょうず)神社本殿は重要文化財。岸和田城,摩湯(まゆ)山古墳(史跡),久米田池,久米田寺,積川神社などがあり,南西端の和泉葛城山のブナ林は天然記念物に指定。毎年 9,10月に行なわれる岸和田だんじり祭は泉州(せんしゅう)の代表的秋祭の一つ。JR阪和線,南海電気鉄道本線,国道26号線,阪和自動車道が通り,岸和田和泉インターチェンジがある。面積 72.72km2。人口 19万658(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by