島川村(読み)しまがわむら

日本歴史地名大系 「島川村」の解説

島川村
しまがわむら

[現在地名]栗橋町島川

高柳たかやなぎ村の東に位置し、村の南を島川が流れ、川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元禄年中改定図(風土記稿)などにみえるように、島川は当村で古利根川より分れていたため島川の名がある。田園簿に村名がみえ、田高四四石余・畑高一一九石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本松平領。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。「風土記稿」によると家数二三。もとは八甫はつぽう(現鷲宮町)との間に橋が架けられていたが、「風土記稿」成立当時には渡船が行われており、「郡村誌」によれば島川渡と称し、渡船は三艘で私渡しであったという。


島川村
しまがわむら

[現在地名]秦荘町島川

野々目ののめ村の東、長塚ながつか村の北に位置する。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に島川村一千三四九石余とある。文久二年(一八六二)上知。しかし領民の反対などで彦根藩預所として明治維新を迎えた。元禄八年大洞弁天寄進帳では男三〇八・女二九四、寺社方男五・女六。鎮守は島川神社。もと天台宗という真宗大谷派の島川とうせん寺、もと禅宗で寛永元年(一六二四)真宗に改宗した浄土真宗本願寺派道玄どうげん寺がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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