日本歴史地名大系 「崎城跡」の解説
崎城跡
ならざきじようあと
「福山志料」に「楢崎加賀守豊武正慶二年足利尊氏将軍ヨリ芦田郡ノ地頭職ヲ給フト云」とあり、「西備名区」は「楢崎加賀守豊武 宇多源氏、湯原左衛門尉末葉也、宇多加賀守と称す、鎌倉殿より芦田郡地頭職を給はり、当国に下向し当城を築き居住し、地名によつて豊武、楢崎を以称とす」と記す。以後楢崎氏は由緒書(旧版「広島県史」所引)などによると地頭などとして存続、豊景の時代には毛利元就に仕え、元亀元年(一五七〇)一一月一六日付の元就の感状(「芦品郡志」所収)に「今度於備後謀叛人悉討果、剰神辺之要害無異儀取返一国及平均事貴殿之働無比類段忠節感悦に候」とみえる。
崎城跡
くしざきじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報