崎城跡(読み)ならざきじようあと

日本歴史地名大系 「崎城跡」の解説

崎城跡
ならざきじようあと

[現在地名]府中市久佐町

朝山あさやま城・二子ふたご城・朝山二子城ともいう。芦田あしだ川の左岸久佐くさ盆地の東を画する城山しろやま(二七〇メートル)の山頂にあった楢崎氏の居城。久佐盆地を一望できる。

福山志料」に「楢崎加賀守豊武正慶二年足利尊氏将軍ヨリ芦田郡ノ地頭職ヲ給フト云」とあり、「西備名区」は「楢崎加賀守豊武 宇多源氏、湯原左衛門尉末葉也、宇多加賀守と称す、鎌倉殿より芦田郡地頭職を給はり、当国に下向し当城を築き居住し、地名によつて豊武、楢崎を以称とす」と記す。以後楢崎氏は由緒書(旧版「広島県史」所引)などによると地頭などとして存続、豊景の時代には毛利元就に仕え、元亀元年(一五七〇)一一月一六日付の元就の感状(「芦品郡志」所収)に「今度於備後謀叛人悉討果、剰神辺之要害無異儀取返一国及平均事貴殿之働無比類段忠節感悦に候」とみえる。

崎城跡
くしざきじようあと

[現在地名]下関市大字豊浦村 宮崎

長府の南部、海岸近くの串崎くしざきにあった大内家の臣内藤隆春が住したという城。串崎城とも雄山かつやま城とも称された。

「豊府志略」には

<資料は省略されています>

とある。

また「前太平記」に「天慶三年長門国には稲村平六景家長府城に帰りて、また国中の賊徒等をあつめ門司赤間二か所に関を置けて、山陽道をさし塞きける間、官軍兵糧運送の道を絶て、以ての外困窮す」とある長府城をこの城にあてる説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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