久佐村(読み)くさむら

日本歴史地名大系 「久佐村」の解説

久佐村
くさむら

[現在地名]府中市久佐町

河面こうも村の西に位置し、村中を久佐川が東流する。南は御調みつぎ諸毛もろけ村、西は世羅郡小谷おたに(現甲山町)中世には「草村」と記し、室町期を通じ尾道浄土じようど寺が公文職をもっていた。これは暦応二年(一三三九)足利尊氏により塔婆料所として寄進されたことに始まる。すなわち同年一〇月六日付の寄進状(浄土寺文書、以下同)に「同国金丸・上山村地頭職并草村公文職事 右為当国塔婆料所々寄付也」とあり、これを受けて同年一二月には遵行状が出されている(同月七日付左衛門尉遵行状)以後浄土寺領としては上山うやま村と同様の経過をたどった(→上山村。なお文明一五年(一四八三)の備後国葦田郡草村浄土寺分収納目録によれば、草村から浄土寺へ米・麦・大豆・苧・茶・かちくり・いもが納められ、銭として桑代五〇文・神おがみの代一〇〇文・やぶさめの代一〇〇文・一二月松代一五〇文・七月松代二一六文が納入されている。


久佐村
くざむら

[現在地名]金城町久佐

今福いまふく村・長屋ながや村の南に位置し、東は丸原まるばら(現旭町)、西は上来原かみくるばら村・下来原村。久佐川が中央を北流し、家古屋かこや川に合流する。久佐川下流では久佐盆地を形成し、久佐川を挟み東西の山裾に人家が点在する。津和野奥筋往還が通る。「和名抄」東急本に載る那賀郡久佐郷の遺称地とされ、中世も一帯に同名の郷が成立していた。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「くさ 十五町一反」とみえ、後代の加筆と考えられる「ふくやちきやう(福屋知行)」の注記がある。正平一六年(一三六一)久佐郷内波佐はざ清六屋敷田畠などが、周布氏の庶子鳥居氏に安堵されている(同年三月一一日「足利直冬安堵状」閥閲録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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