川会郷
かわえごう
「和名抄」は諸本とも訓を欠く。推定郷域は吉野川の支流河会川流域の河岸段丘面を中心とする地域、現英田郡英田町北香合・南香合一帯。読みについては中世に郷名を継いだと考えられる河会郷・河会庄があり、建治三年(一二七七)九月一二日の渋谷重経譲状(入来院文書)に「かわへのかう」とみえる。「文徳実録」によれば嘉祥三年(八五〇)八月一一日に英多郡大領外従八位上財田祖麻呂が「郡下川会郷英多河石上」で白亀をとり、翌月一五日には英多郡の当年の庸が免除されている。このとき備前国磐梨郡、石見国安濃郡、摂津国島上郡から白亀など一連の祥瑞が出現しているが、これは同年三月の文徳天皇即位に関連するものであろう。
川会郷
かわいごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「加波比と訓ムべし」とし、郷名の由来を「川の行合ノ処にて負せたるべし」と記している。「明治二十二年町村合併調書」によると、明治二二年(一八八九)に上原村・志塚島村・以真恵村・牧村(現田主丸町)を合併して川会村とし、「和名抄ノ載スル所、現今志塚島村、牧村辺ヲ総称シテ、川会ト云。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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