川原郷
かわばるごう
高城郷・椎木郷の西に位置する。天正六年(一五七八)一一月六日、豊後の大友方によって島津方の拠る川原の陣が破られている(「川上久辰耳川日記」都城島津家文書)。江戸時代高鍋藩は領内を支配するため数村を合せ郷を編成した。当郷は新納七郷の一つ。川原村と持見村の二村で構成され、初めは野別府代官支配地であったが、元禄四年(一六九一)以降新納代官の支配に属した。寛永一五年(一六三八)の高鍋藩人給帳に諸郷催司(庄屋)の一人として二石取の河原の太郎兵衛の名がみえる。
川原郷
かわはらごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「三国地志」は山田川のほとりの畑村(現阿山郡大山田村)の字川原出にあてる。「日本地理志料」は「加波良」と読み、近世馬野郷広瀬・奥馬野・中馬野・坂下・出後(現大山田村)の諸村にあてる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報