山田郡(読み)やまだぐん

日本歴史地名大系 「山田郡」の解説

山田郡
やまだぐん

讃岐国の中央部よりやや東に位置し、東は三木(みき)郡、南と西は香川郡と接し、北は瀬戸内海に面する。現高松市の東部を郡域としたが、中世以来、三木郡に属した現木田(きた)郡庵治(あじ)町域が当郡に属した。

〔古代〕

「日本書紀」天智天皇六年(六六七)一一月条によれば、同月「讃吉(岐)国山田郡屋島城」を築いたという。和銅二年(七〇九)七月二五日の大和国弘福寺領田畠流記写(正倉院文書)に「讃岐国山田郡」とみえる。奈良時代の当郡には右文書などにみえる弘福(ぐふく)寺(川原寺、跡地は現奈良県高市郡明日香村)領および天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(同文書)にみえる奈良法隆寺領の庄園がそれぞれ一ヵ所ずつ存在した。弘福寺領については、同七年一二月一五日作成の田地図(多和文庫蔵)が残り、香川郡と隣接する地域に位置し二〇町ほどの田地からなっていたことがわかる。その地形から現在の高松市林(はやし)町の一部に比定されている。法隆寺領については不明である。天平宝字五年(七六一)からほどない時期のものと推定される弘福寺領の検出田について報告した山田郡司牒案(東寺百合文書)などによれば、当郡には大領綾公人足・少領凡氏・主政佐伯氏・擬主政秦公大成らの郡司がおり、令制上でいう上郡の扱いを受けていたことがわかる。元慶四年(八八〇)三月二六日の太政官符(類聚三代格)に引かれた讃岐国解によれば、当時、当郡には一〇郷と余戸が所属し、課口は一千七六〇人で、大領・少領のほかに主政と主帳が各二名ずつ置かれていたという。「和名抄」に記す所管の郷は殖田(うえた)・池田(いけだ)・坂本(さかもと)・蘓甲(そがわ)・三谷(みたに)・拝師(はやし)・田中(たなか)・本山(もとやま)・高松(たかまつ)・宮所(みやどころ)・喜多(きた)の一一郷であるから、こののち余戸は戸数の増加により立郷されたとみられる。なお平城宮跡出土木簡には林郷がみえるほか、「□岐国山田郡海郷」と記されたものがあり、奈良時代には郡内に海(あま)郷が存在したことが知られる。また長岡京跡出土木簡には殖田郷・三谷郷関係のものとみられるものがある。

「法曹類林」によれば承平二年(九三二)頃、当郡には国目代が置かれており、少領の讃岐氏がその任についていた。これは郡司が国衙官人に任用されたものであろう。「延喜式」兵部省にみえる南海道の三谿(みたに)駅は、郷名から三谷郷にあったと推定される。なお郡内に式内社は存在しない。文治二年(一一八六)の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)に「讃岐国山田郡地文書」と掲げられており、これ以前に郡内に山城醍醐寺の寺領が存在していた。


山田郡
やまだぐん

面積:四七・九三平方キロ
大間々(おおまま)町

古代律令制以来の郡で「和名抄」に「夜末太」と訓がある。近世の山田郡は、東は桐生川・渡良瀬川・矢場(やば)川を境として下野国安蘇(あそ)郡・足利(あしかが)郡に接し、南・西は新田(につた)郡および勢多(せた)郡、北は勢多郡に接する渡良瀬川沿いの地域であったが、大正一〇年(一九二一)桐生市が成立、その後同市や太田市などへの編入合併が進み、現在大間々町一町のみ。

〔原始―中世〕

縄文時代の遺跡は旧郡内の山間丘陵地に広く分布し、大間々町域内には高松(たかまつ)遺跡(塩原)、瀬戸(せと)ヶ原(はら)遺跡(桐原)などがある。桐生市にある千網谷戸(ちあみがいと)遺跡は縄文晩期を主体とし、精巧な土製耳飾を多数出土。古墳は旧郡南部に多く分布し、太田市に含まれる地域には帆立貝式古墳が数基ある。北部では桐生市の川内天王塚(かわうちてんのうづか)古墳が知られる。「日本後記」延暦一五年(七九六)八月一六日条に「上野国山田郡賀茂神、美和神(中略)並為官社」とあり、この二社は「延喜式」神名帳にも載る。いずれも現桐生市内の同社名に比定される。「続日本後紀」承和二年(八三五)七月二一日条に「以空閑地(中略)上野国山田郡八十町賜諱田邑」とあり、郡内の空閑地八〇町が道康親王(のちの文徳天皇)に与えられている。「和名抄」の山田郡には山田・大野(おおの)・園田(そのた)・真張(まはり)の四郷が記されるが、うち山田郷を大間々町高津戸(たかつど)を中心とした地域に比定する説がある。


山田郡
やまだぐん

古代・中世の尾張に設けられた郡。尾張の東北部に位置し、北を春部(かすがべ)郡、南を旧愛知郡に挟まれた地域を占める。郡域は定かではないが、郡内の古代・中世地名から、現瀬戸市・尾張旭市・愛知郡長久手(ながくて)町のほぼ全域、同郡日進(につしん)町の北部、名古屋市守山(もりやま)区・北区のほぼ全域、西区・東区・千種(ちくさ)区・天白(てんぱく)区・名東(めいとう)区・春日井市の一部が含まれていたと推定される。庄内川・矢田(やだ)川の流域に沿った自然堤防地帯と、両河川および天白川上流の迫を中心に集落や耕地が開かれているが、大半は山野で占められていた。

「日本書紀」天武天皇五年九月二一日条に「忌斎忌此云踰既則尾張国山田郡」とみえているが、郡名表示として使用されたより確実な初見史料は、天平二年(七三〇)一二月の尾張国正税帳(正倉院文書)の

<資料は省略されています>

である。平城宮出土木簡に、尾張国と推定される「山田郡」の記載のあるものが発見されている。また無年号ではあるが、正倉院宝物銘文に、尾張国八郡のうちに「山田郡」の記載をみる。「延喜式」「和名抄」ともに「山田」「山田郡」をあげる。


山田郡
やまだぐん

伊賀国の東部を占め、北に阿拝郡(現阿山郡伊賀町)、西南に伊賀郡(現上野市・名賀郡青山町)、東は伊勢国に接した。現阿山郡大山田(おおやまだ)村と上野市喰代(ほおじろ)・蓮池(はすいけ)・高山(たかやま)辺りに比定される。「和名抄」東急本は「山田」と記し、「也末太」と読む。「延喜式」(民部省)は「山田(やまた)」と傍訓を付す。平城宮出土木簡および「三代実録」貞観七年(八六五)九月五日条などに「山田郡」とみえる。「和名抄」は郡内に木代(きじろ)・川原(かわはら)・竹原(たけはら)の三郷を載せるが、木代は「喰代」の誤りと思われる。


山田郡
やまだぐん

「和名抄」に記載される市原郡山田郷の郷名を継承しており、同郷がいわば中世的郡として再編されたのであろう。弘安期(一二七八―八八)頃の相模国早河庄内風祭郷訴論人系図(金子文書)に上総国山田郡本上村地頭職とみえ、同村は風祭三郎入道西妙の所領であったが、当時金子康広と長門三郎入道道教が争っていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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